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御嶽神社
みたけじんじゃ
長野県上田市御嶽堂179
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長野県上田市にある。
しなの鉄道・大屋駅の南西7Kmほどの御嶽堂に鎮座。
152号線を5Kmほど南下して西へ入り、依田川を越えて西へ行くと
車道に面して、参道入口に赤い鳥居が立っている。
鳥居の左手に灯籠が立ち、右手には「郷社御嶽神社」と刻まれた社号標。
参道入口から、500mほど狭い車道を上って行くと当社に到着するが、
当社の手前100mほどの位置に、木曽義仲館跡がある。
『平家物語』に「木曽は依田城に有りけるが…」とある依田城の候補地。
治承四年(1180)、平家討伐のため木曽を出た義仲は、
依田氏の招聘を受けて当地に逗留し、養和元年(1181)白鳥河原にて挙兵した。
木曽義仲館跡(依田城)の候補地は当地の周辺にいくつかあるが、
いずれにしろ砂原峠の近くで、東信・北信・南信を結ぶ要衝の地であり
東山道・北国道を一帯見渡すことができるなど戦略的にも重要な地帯。
また、地元の土豪、依田・丸子・長瀬氏など、信濃や上州の関東武士団が控え、
さらに強力な騎馬団に必要な「御牧」なども存在した地であった。
参道入口 |
社前100mに木曽義仲館跡 | 木曽義仲館跡 |
木曽義仲館跡 |
木曽義仲館跡
城山北麓の台地上にあるこの館跡は
依田城とも呼ばれ、「平家物語」の中に
出てくる
「木曽は依田城に有りけるが…」
の依田城はここであると推定されてい
ます。治承四年(一一八〇年)、木曽を出た 義仲は、この依田城に拠って挙兵し、 信濃軍団を率いて平家の大軍を撃破し ました。 ここは、塩田平を砂原峠で結ぶ要所 をおさえ、城山々頂からは、東山道や 川中島方面まで望見できる要害の地で ありました。 −案内板−
木曽義仲館跡
治承四年(一一八〇年)九月木曽館で
「以仁王」の平家討伐の令旨を受けた義仲は
「旗上げ」の儀式を済ませると、
かねてから依田氏らから兵馬調達と挙兵の
適地として招聘を受けたここ依田館に入城
し逗留後、信濃源氏、上州源氏三千余騎を
集め養和元年(一一八一年)白鳥河原に
兵を集結させ越後の平家方、城資永
率いる二万余の大軍を打ち破り、後の
倶利伽羅峠の合戦に勝利するまで長期に
わたりこの館に逗留した義仲軍の実質的
な挙兵の地と言われている。
また居館は周辺一帯の段丘に広がって
いたと推定される。
−案内板− |
木曽義仲館跡から100mほど進むと当社の社域。
境内入口の鳥居をくぐると、鬱蒼と木々の茂る境内。
参道を進むと石組があり、石組の上に社殿。
拝殿の後方、覆屋根の設置された流造の本殿がある。
石組の手前、境内の左手に石祠が十個並んでいるが詳細は不明。
昔は、境内の左手の山腹に、四つの木造祠と五つの石祠が祀られていたが、
大正八年(1919)四月、上組内に散らばっていた
石尊社・諏訪社・白山社・三峯社・大神宮・稲荷社・金毘羅社を合祀。
平成十年(1998)新しく土台を造って祀りなおしたものらしい。
当社の社号・御嶽神社は『平成祭データ』には「おんたけじんじゃ」とあるが
鎮座地名の御嶽堂(みたけどう)同様、地元では「みたけじんじゃ」と呼ぶ。
創祀年代は不詳。
古来、依田村内の上組の産土神として崇敬された神社。
一説には、依田城に在った木曽義仲が、
「王の御嶽(みたけ)」として信仰していた木曾の御嶽山の神
(大己貴命・少彦名命)を祀ったという。
あるいは、奈良金峯山の蔵王権現(安閑天皇)を勧請し
水分(みくまり)山である城山を御嶽(みたけ)としたという説もあるらしい。
以上のように祭神は大己貴命、少彦名命、安閑天皇。
社殿には御神体として、正面に黒衣束帯に彩色された地蔵尊の木像座像、
右手には彩色してない地蔵尊の木像立像、
左手には衣冠束帯に彩色された木像座像が祀られているらしい。
永禄年中、武田信玄によって拝殿が造営され、
天正三年(1575)六月本殿が再建された。
元は、御嶽権現と称していたが、明治三年十月、御嶽神社と改称し、
明治六年四月御嶽堂・生田・東内・西内・腰越五ヶ村の郷社に列した。
境内右手が広くなっているが、
昔は奉納相撲などの神事が行われていたのだろう。
社頭 |
鳥居 | 境内参道 |
境内 |
境内社 | 社殿 |
拝殿 | 本殿 |
境内 |
御嶽神社
依田村大字御嶽堂、字日陰にあり。祭神は大己貴命・少彦名命・安閑天皇。祭日、九月二十八日。創立年代詳
ならず。永禄年中武田信玄の崇敬する所となり拜殿を造營し、天正三年六月又本殿を再建すと。口碑もと御嶽
權現と稱せしを、明治三年十月二十日岩村田藩の許可を受け、御嶽神社と改稱す。舊御嶽堂村上組の産土神
たり。同六年四月御嶽堂・生田・東内・西内・腰越五ヶ村の郷社に列す。同四十一年十月二十七日會計法適用指
定。本殿・拜殿・鳥居等を具備し、境内、六百八十七坪。氏子七十二戸。
−『小縣郡史』− |