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杵衝神社
きつきじんじゃ
山梨県笛吹市御坂町尾山818
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式内社 甲斐國八代郡 桙衝神社 |
山梨県笛吹市にある。
石和温泉駅の南東7Kmほどの御坂町尾山に鎮座。
中央道の一宮御坂I.Cから南に3Kmほどの場所。
境内入口は北西向き。
当社は北西3Kmにある甲斐国二之宮・美和神社の古社地と伝えられており、
美和神社の方向を向いているようにみえる。
入口の鳥居をくぐり、参道を進むと、
美和神社同様、参道の中央に立石が立っている。
拝殿は瓦葺入母屋造。後方の本殿は銅板葺流造。本殿の後ろに立派な御神木がある。
本殿は比較的新しい印象だが、最近改築されたのだろう。
境内社は見当たらなかったが「八幡大神」と刻まれた石が祀られていた。
参拝は四月の後半。
境内の緑が瑞々しくて気持ち良い神社だ。
創祀年代は不詳。『甲斐国社記・寺記』によると、
景行天皇の御宇、国造塩海宿禰によって勧請された美和明神の古廟。
『山梨県神社誌』には、当社は式内社(桙衝神社だろう)であり
甲斐国二之宮・美和神社の古社地であるとある。
古くは山宮様、山宮喜筑明神とも呼ばれ、
明治以前は、御射的祭、御湯立祭、騎射祭などが行われていたという。
また、美和神社の神幸が盛大に挙行されていたが、現在は中絶されているらしい。
美和神社の社伝には、当社同様、景行天皇40年日本武尊東征の際に、
大和大三輪神社を勧請し、国造塩海足尼を祭主として祀ったのがはじめ。
その後、一条天皇の御代(980〜)に、甲斐国二之宮の号を受けたとあり、
当社からの遷座の記述はないのだが、一時期「杵衡神社と称し」とある。
もし、当社が美和神社の古社地であるなら、杵衡(きつき)の社号から
本来は、出雲の杵築神社(現出雲大社)からの勧請のような気もするが、
いつの頃か、大和の三輪と同神として混同、あるいは府会され、美和となったのかもしれない。
ただし、美和神社は三代実録の貞観五年(863)六月八日に
「甲斐國從五位下勳十二等物部神。美和神從五位上」とあり、
10世紀の延喜式に「桙衝神社」として記されているのも不自然な感じがする。
当社は古くは山宮様とされていたことから、里宮としての美和神社と当社は一体と考えられ、
その後、美和神社が発展して、二之宮とされたということだろうか。
一之宮・浅間神社も最初の鎮座地は山宮とされている。
また、美和神社が大物主命(大己貴命)を祀り、当社が素盞鳴尊を祀っている形態は、
出雲大社と後方に祀られた素鵞社との関係に見えなくもない。
などと、いろいろと考察してみるのも面白い。
本殿の屋根や賽銭箱には引両紋。
これも美和神社と同じ神紋だ。
社頭 |
鳥居 | 境内 |
立石と社殿 |
拝殿 | 本殿 |
八幡大神 | 御神木 |
美和神社由緒
美和神社は景行天皇の御宇日本武尊により甲斐國
造塩足尼が大和の大三輪神社から勧請し奉った甲斐
國内での古社である。祭神は大物主命で木造衣冠立
姿の御神体は平安時代の様式をもち重要文化財に指
定されている。後醍醐天皇の御代に一時杵衡神社と
称し奉ったが一條天皇の御時甲斐國第二之宮の号を
賜り年々一宮浅間神社、玉諸神社と共に甲斐國の水
防の祭儀を執行その御幸は國内をあげての大祭であ
った。ために代々その國主の崇敬も厚く、社領の安
堵社壇の造営も行われそれらの由緒を示す社宝も見
るべきものが多い。−参考として美和神社境内案内板より抜粋− |