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長野県の阿智村にある。
阿智町役場の北西3Kmほどの智里(ちさと)に鎮座。
阿知川を遡って153号線を西へ進み、
256号線に入って1Kmほどの昼神温泉に阿智神社前宮(前社)がある。
256号線から北へ入った場所に境内があるのだが、
入る場所を間違えて、僕は境内の裏から参拝した。
ということで、一度境内を通過し、表参道に戻って参拝開始。
参道の坂道を上ると鳥居が立っており、鳥居の奥に手水舎。
手水舎の前を通過し、階段を上ると、もう一つの鳥居。
鳥居をくぐると、社殿のある林の中の境内。
「鳥居をくぐる」と記したが、実際にはくぐっていない。
参道の二基の鳥居には、細い注連縄が張られているのだが、
胸の高さの位置に張られているため、くぐる事をためらった。
通常の神社の鳥居では、注連縄は上部の貫(横棒)の位置にあるのだが、
阿智村周辺の神社では、鳥居の脚の部分の中ほどに張られているようだ。
境内の奥、北側に南向きの社殿。
入母屋造妻入りの拝殿の後方に、本殿を納めた覆屋が接続した形式だ。
拝殿の左手の木に、白い御幣が掲げられていた。
なにか意味のあるものだと思うが、詳細は未確認。
西側にあることから、奥宮を遥拝するものなのかもしれない。
創祀年代は不詳。
社伝によると人皇第八代孝元天皇五年春正月、
天八意思兼命が御子神を従えて信濃国に天降り鎮座したという。
式内社・阿智神社に比定されている古社。
鎮座地である「昼神」の地名は「蒜噛」を好字に替えたもの。
『日本書紀』景行天皇四十年の条に、日本武尊が信濃の山中で白鹿となって現れた神に
蒜(ひる)を投げつけて殺したため道に迷って難渋したが白い犬に助けられ美濃に出たとあり、
以前は、信濃坂を越える者は、神の気を受けて病になる者が多かったが、
この後は、山を越えるものは蒜を噛んで人や牛馬に塗ると神気にあたらなくなったとある。
祭神は、天八意思兼命とその御子・天表春命。
天表春命は帰化人である阿智祝の祖と考えられ、
出雲系の諏訪族に対する、天孫系の尖兵として当地に駐留したと伝えられ、
奥宮の地は天表春命の墳墓という説がある。
一説には、当社は戸隠神社の元宮であるといい、
阿智神社は吾道宮とも称し、
『信濃地名考』には、天八意思兼命の御子・手力雄命は吾道宮に鎮座した後、
戸隠神社奥社へ遷座したと記されている。
また、天八意思兼命を祭神とする戸隠神社中社や
天表春命を祭神とする戸隠神社宝光社は当社から分祀されたものという説もあるらしい。
江戸時代には徳川幕府より朱印地十石の寄進を受け、
明治五年十一月郷社に列した。
当社の神紋は未確認だが、奥宮の社殿内に菊紋を染めた幕がかけられていたので、
とりあえず菊紋として十六弁八重菊を載せておく。
参道 | 参道鳥居 |
阿智神社前宮境内 |
鳥居 | 境内 |
本殿覆屋 | 拝殿 |
社殿 | 拝殿脇の木に御幣 |
なんだろ |
−参道由緒書より− 阿智神社 御由緒 社伝によれば人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うたと伝えられ、この地は古代東山道の沿線にあたり、鎮座地昼神の地名は日本武尊東征(やまとたけるのみこと)よりの帰路神坂峠を越えんとして峠に住む荒らぶる神の毒気に遮られて進むことができず、たまたま噛んでいた蒜(ひる=にんにく)を吹き掛けた処、悪神たちどころに倒れて進むことができた。 それよりこの地を蒜噛(ひるがみ)という(日本書紀)と伝え、後好字に替えて昼神になったとせられ、また一説にこの地に天降った八意思兼命は高天原(たかまがはら)随一の知恵の神として万機を建策ことごとく成就、殊に天照大神が弟神素盞鳴尊(すさのおのみこと)の余りの無道を憤り、天岩屋(あまのいわや)に隠れ給うやこの神の差配によって無事大神を外にお出しし、太陽の神天照大神をお出しするに大功あった神の鎮まります所、即ち暗(やみ)より昼に帰した功神(いさをがみ)を祭る処故昼神であるといわれている。 延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)所載伊那郡(現上下両郡)2社の内の1社が当阿智神社で(故に延喜式内社あるいは単に式内社ともいう)古くより国司(くにつかさ)祀祭の社として崇敬極めて厚い地方の名社である。 奥宮は前宮より阿智川に沿って上ることおよそ2粁、本谷川と黒川が合流して阿知川となる三角に突出した半島状の先端部に祭られ、全山大木欝蒼と繁り、春はその間に岩つつじが可憐な花を見せ、秋は紅葉が美しく川の流れに映え、四季を通じて景勝の誉れ高い所である。 これより奥3粁程で歴史と伝説の里園原、更に神坂峠へと通ずる。 この奥宮の地こそ阿智地方開拓の祖神天表春命(あめのうわはるのみこと)の永久の鎮り処川合陵(かわあいのみささぎ)にて、風光明媚まことに祖先の神霊を齋き(いつき)祭る奥津城(おくつき=墓)に相応しく、丘上に苔蒸した巨石が祀られ、かつて国学院大学教授大場磐雄博士により磐座(いわくら)即ち上代における祭祀の遺蹟であると立証せられた。 そもそも阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、平安初期に成立した「先代旧事本紀」(せんだいくじほんき)に八意思兼命その児(みこ)表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となるとあり、信濃の国境を扼(やく)する神坂の東麓阿智地方に留まりその一族を率いて伊那西南部地方を開拓経営にあたり、隣接する駒場町に鎮座する元郷社安布知(あふち)神社もやはり天思兼命を主神として奉祀している。 この駒場は延喜の官道東山道阿智駅(あちのうまや)が置かれ、駅跡(うまやあと)と推定せられるところを中心に条理制の跡を残す水田開け、水田地帯の周辺部に古墳多数が見られることからこの神社を含めて式内阿智神社であるとする史論も近頃高まりつつあり、いずれにしても阿智神社奥宮の地より昼神、更に安布知神社の鎮座する駒場にかけての一帯こそ古代阿智族の本拠地と見るべく両神社とも昔時は吾道宮(あちのみや)或いは吾道大神宮(あちのおおかみのみや)と称(とな)え、江戸期にはそれぞれ朱印十石の寄進を受けた有力な古社であった。 又上水内郡戸隠村鎮座元国幣小社戸隠神社中社の御祭神天八意思兼命、宝光社天表春命の二神は村上天皇天暦年間当社より分祀せられたと伝えられ、更に埼玉県秩父神社の御祭神天八意思兼命は同神、御児天下春命(あめのしたはるのみこと)は天表春命の弟神にましますという、それぞれに極めて因縁深い関係の神社である。 −『平成祭データ』− |
前宮から、さらに阿知川を2Kmほど遡った場所、
本谷川と黒川が合流して阿知川となる三角に突出した半島状の地に当社の奥宮(奥社)がある。
奥宮と書いて、通常は「おくみや」と読むが、
『平成祭データ』では、「おんみや」と記されていた。
ひょっとすると誤記かもしれないが、面白いので、当サイトでは「おんみや」としておく。
道路の南側に、奥宮入口の鳥居が立っており、脇に社号標と篝薪神楽歌を刻んだ石碑。
鳥居をくぐり、狭い参道を進むと、木立の点在する広い境内。
境内の中央部に、東向きの社殿。
社殿の前に台のようなものが設置されているが、神楽の舞台となるのだろうか。
境内の右手に川合陵と呼ばれる、ちょっとした丘の上に鳥居を玉垣があり、
玉垣の中に磐座がある。
この磐座の上部には溝が刻まれており、東西南北を示しているらしい。
参拝は、ちょうど朝日が昇った頃で、朝日を背に受けて参拝したが、
なるほど、この場所に立つと、昇る朝日に神を感じることも理解できる。
奥宮の祭神は、前宮と同じ天八意思兼命と天表春命。
阿智神社奥宮社頭 |
鳥居と社号標 | 篝薪神楽歌を刻んだ石碑 |
参道 | 境内 |
阿智神社奥宮境内 |
社殿 | 磐座玉垣 |
磐座 |
延喜式内社 阿智神社奥宮
この丘陵は昼神に祭られている阿智神社の奥宮です。昔から村人は「山王さま」と親しみをこめて呼び、小 丘を阿智族の祖天表春命の墳墓「河合の陵」と名づけ て信仰を集めてきました。 丘の頂、玉垣に囲まれた巨石は磐座であると云われて きました。 このごろこの巨石を囲む遺構が発見され、いよいよ磐 座であることが確かになりました。 磐座とは古代の祭祀場において神霊が降りてきて鎮座 したところです。この地が阿智神社の祭神、八意思兼命 (天思兼命)・天表春命の鎮座地であるとともに、全国の 総本社であることがうかがえます。 この二神は信濃国に天降って阿智の祝の祖となっ たことが平安時代初期に編された「先代旧事本紀」に記さ れておりますし、天思兼命は「古事記」「日本書紀」に高天 原随一の知恵の神として登場しています。 −社頭由緒書− |