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飯縄神社 里宮
いいづなじんじゃ さとみや
長野県長野市富田380
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式内社 信濃國水内郡 白玉足穂命神社 |
長野県長野市にある。
長野市街地から戸隠バードラインを戸隠方面へ向い、
七曲りを越えて1Kmほどの富田。
バードラインから少しはずれた、傾斜地に鎮座している。
道路脇にリンゴの販売所があったので、そこで道を聞く。
バードラインから狭い路地を下りていくと車道に出て、
その側に境内入口がある。
社伝によると、西暦270年頃、第十五代応神天皇の御代に
飯縄山山頂に天神大戸道尊を祀り、飯縄大明神と称したのが当社の起源。
式内社・白玉足穂命神社の論社である。
「飯縄」とかいて「いいづな」と読む。
古書には、飯綱と書かれているものもある。
現在の正式社名は皇足穂命神社であるが、社号標や
境内案内書きには、「飯縄神社」とあった。
延喜式には、「白玉足穂命神社」と記されているが、
「白玉」は「皇」の意味。
当社の北方10Kmほどの飯縄山山頂に奥宮が鎮座しており、
当社は里宮にあたる。
当社の由緒で、興味深いのは、飯縄信仰にまつわる話。
一二三三年、飯縄山に入山した伊藤兵部太夫豊前守忠綱が飯縄権現を勧請し、
その子盛綱が、飯縄信仰普及に努めた。
盛綱は「千日太夫」と名乗り、荼枳尼天の法を修得、
さらに飯縄法という管狐を用いる法術に長け、
飯縄原始忍法の祖であった。
当社祭神は、保食神であるが、これは稲荷神。
荼枳尼天の使いは本来は狼であるが、日本では狐となっており、
豊川稲荷で祀られている仏。元は人食いの夜叉であった。
さらに、人に憑かせるという管狐を用いた法術と、
なんとも怪しげで、面白そうな題材の宝庫である。
飯縄山には、「食べられる砂」、すなわち「飯砂」があるといわれ、
飯縄山の語源となっている。その砂は現存するが、一種の菌類であるらしい。
戸隠バードラインから狭い道を歩いて降りて行くと、
石(あるいは石像)を並べた祭祀場のようなものがあった。
当社との関連は不明だが、面白いので撮影。
神社そばにあった祭祀場? |
入口の両脇に社号標が建っているが、
左の社号標は「飯縄山里宮」、右には「式内郷社皇足穂命神社」。
鳥居扁額にも「皇足穂命神社」とある。
入口の鳥居から階段の参道を登ると、正面に拝殿があり、
二本の木の間を通って参拝。
境内には、立派な大杉があり、案内板には、
「長野市指定天然記念物・皇足穂命神社の大杉」。
拝殿・本殿に輪宝の紋が付いていたのだが、
神紋かどうかは不明。
境内入口 | 鳥居 |
鳥居扁額に 「皇足穂命神社」 | 参道階段 | 上から |
境内社殿 |
本殿 | 拝殿 |
大杉 |
飯縄神社里宮
飯縄神社は、西暦二七〇年頃第十五代応神天皇の
御代飯縄山山頂に天神大戸道尊を祭り、飯縄大明神と
称したのがそもそもの起こりで、本地を大日如来とし
八四八年学問行者が飯縄山に入山して、この如来の
尊容を拝したと言われる。西暦一二三三年に信濃国荻野(信州新町)の地頭 伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げに より入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。忠綱の 子、盛綱も父に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、 父より飯縄の法(管狐を使う独特の法術)を受継 ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称し、 飯縄信仰を全国に広げると共に忍法の祖となった。 又、武門の尊崇を受け、特に足利三代将軍義満は、 紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山本地仏として寄進し、 室町時代末期には武田・上杉両家の深い尊信を受け 神領を寄進され、徳川三代将軍家光も朱印地百石を 寄進するなど、飯縄信仰は全国的に伝播、万余の末 社を有し、全盛を誇った。この里宮は、千日太夫の 冬季居所に武田信玄が創建したものといわれる。 飯縄山は山頂より食べられる砂(飯砂)を産し、 参籠の行者等は、これを採って食べたことから飯砂 山、転じて飯縄山と言い、これは保食神(皇足穂命) の霊徳として、明治六年長野県庁より皇足穂命神社 の称号を与えられた。 −境内案内− |