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水神社
すいじんじゃ
長野県南佐久郡小海町小海箕輪3623
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昭和五十六年(1981)発行の『郷土を救った人々―義人を祀る神社―』に、
小海町の二つの石祠の記述がある。
一つ目は宝永創建、山口弥兵衞命を祀る弥兵衛明神社。
山口弥兵衞は江戸・三谷町の人で、宝永年間(1704〜10)、
小海町に来て、千曲川より3カ所水を取り入れ、
箕輪、芦谷、土村、宿渡、中村、本村の地域に十八町歩の田を開墾し、
おかげで小海町の人々は、はじめて米を手に入れることが出来たという。
また、一説には、山口弥兵衞は金融業で、開発が困難を極め、
予想外の出費に苦しみ、人足費の不払いのために殺され、村人がその霊を祀ったという。
『郷土を救った人々』によると、弥兵衛明神社に関して、
「小海駅より千曲川左岸を二キロほど遡った箕輪部落の急峻な山中に
石の祠が深い草の中に鎮まってゐた。」
「石祠の前には、弥兵衛大人が測量のときに腰かけたと伝えられる
樹齢三〜四百年はあろうかと思はれる三本の老松があり、その真下には千曲川の流れが美しい」とある。
残念ながら、箕輪集落は千曲川の右岸にあり、
また、千曲川そばには急峻な山中という場所が見当たらない。
二つ目は享保創建、山口弥兵衞のあとをついで開発に尽力した城土丈右衛門命を祀る水神社。
城土丈右衛門は小県郡長窪古の人で、弥兵衞ののちに箕輪に十町歩の新田を開発。
しかし、事業が未完成のまま享保十一年(1727)に死亡。
当時の名主新津與惣治が土村組を指揮して完成させたという。
『郷土を救った人々』によると、水神社に関しては、
「弥兵衛明神から更に山奥に進んだところ」としか記されていない。
上記の弥兵衛明神社と水神社に関して、平成七年(1995)神社庁発行の『平成祭データ』には
水神社の名前しか載っておらず、祭神は山口弥兵衞命となっており、
二祠が一つになっているような雰囲気。
『郷土を救った人々』発行からは30年以上経過しているので、
当時のままではないのかもしれない。
ということで、この二つの石祠を探しに箕輪へ行ってみた。が、結果としては、判らなかった。
以下は、素人が個人の趣味で歩いた結果なので、
正しく知りたい方は、役場や古くから住んでおられる方を訪ね歩いて下さい。
まず、ネットでいろいろな地図サイトをチェックして、
箕輪にある神社を探し、行ってみたのが下記の神社。
現地で社名を確認できなかったが、地図サイトには箕輪神社と記されていた。
箕輪集落にある、唯一の神社らしい神社だが詳細は不明。
箕輪の産土神を祀っているのだろうか。
ただし、所在地は『平成祭データ』記載の山口弥兵衞命を祀る水神社の住所の近く。
箕輪神社境内 |
鳥居 | 本殿 |
箕輪神社付近で、弥兵衛明神社と水神社に関して聞いてみたが、
残念ながら、どなたも御存じなかった。
そこで、『郷土を救った人々』に載っている写真の石祠について聞いてみると、
その石祠かどうかわからないが、3本の木の根元にあり、
地元では「水神様」と呼ばれている石祠があるという。
「3本の木」という表現は、『郷土を救った人々』の弥兵衛明神社のものと同じだが、
訪ねて見ると、開けた田畑の中にあり、急峻な山中ではない。
木の根元には背丈ほどの藪があり、藪を掻き分けて石祠を確認。
『郷土を救った人々』に載っている石祠の写真とは異なっており、
側面には「飯綱権現」と刻まれていた。
ということで、この水神様が弥兵衛明神社かもしれないし、違うかもしれない。
3本の木の根元の水神様と呼ばれている石祠 |
木の根元 | 飯綱権現と刻まれた祠 |
この水神様が、もし弥兵衛明神社であれば、
さらに山奥に城土丈右衛門命を祀る水神社があることになる。
そこで、水神様から少し南下し、箕輪発電所のある山の方へ車を走らせてみた。
箕輪から小海原へ向かう林道なような道を進んでいくと、
途中、発電所へ向かう狭い道があり、その道の傍ら、
谷を望むような位置に大きな石があり、その石の上に石祠が三つ、
千曲川を見下ろすように並んでいた。
その中の右端の石祠には「水神宮」と刻まれていた。
もし、麓の木の根元の水神様が弥兵衛明神社なら、
この石祠が、城土丈右衛門命を祀る水神社ということになるのだが、
この石祠も、『郷土を救った人々』に載っている写真とは違うもので、
さらに三つ並んでいるのも不思議だ。
ということで、弥兵衛明神社と水神社の位置については確認できなかったが、
木の根元の水神様と呼ばれている石祠(飯綱権現)や、山中の水神宮と刻まれた石祠から、
箕輪の人々の、古くからの水に対する信仰を覗き見ることができた気がした。
千曲川を見下ろす石の上に石祠 |
三つ並んでいる | 水神宮と刻まれた祠 |