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大幡神社
おおはたじんじゃ
新潟県佐渡市大倉小平12
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日本海側を佐渡島の北端目指して進む。
大倉の集落の裏にある。分かりにくい。
地元の老婆に道を聞き、狭い路地に入り、
民家の横を抜けると赤い橋があり、その先に見える。
境内は狭い。
鳥居の注連縄、拝殿の額は新しく、
近隣の崇敬を感じる。
境内から日本海が見渡せる。
貞觀三年(861)の創祀。
一説には、延喜元年 (901)の創祀ともいわれるが、
『三代実録』に、元慶七年(883)二月二日、
従五位下を叙されたとある。
式内社・大幡神社に比定されている古社。
佐渡北部二十四ケ村の総鎮守であったという。
祭神の大股主命は、開化天皇の第三皇子・彦坐命の長子・大俣王。
あるいは、天御中主尊の後裔・彦久良伊命の御子・大若子命。
大若子命は、垂仁天皇の頃、
北狄を平らげる功により大幡主命と呼ばれるようになった。
その大股主命が、佐渡の地で戦死したため、祀られたという。
もとは50mほど低地にあったという伝承があるらしい。
あるいは、佐渡の中央部にある加茂湖周辺から遷座したという伝承もある。
社域 |
鳥居 | 鳥居から社殿 |
社殿 | 社殿 |
神橋欄干 | 本殿覆屋 | 拝殿の額 |
【由緒】『佐渡神社誌』には由緒として『元緑寺社帳』
に貞觀三年(八六一)の創設とあり、一説には、延喜元年
(九○一)の創祀なりとも云へり。式内九社の第八にして、
往時は佐渡北部二十四ケ村の總鎭守たりし也。祭神に就て
は異説少なからず。『寶暦寺社帳』には大股主命とあり。
こは開化天皇の第三皇子比古座王、即ち後の四道将軍の内
なる丹波道主命の長子なり。狹穗彦の變に方り、其家長た
るの責を負ひ、豫て叔父大彦命に従ひ此地に至りし縁由も
て、再ぴ佐渡に渡り朝廷に對し謹愼の意を表し、地方開發
に努めたりと云ふ。又の説に、大股主命は大幡主命にて、
大若子命とも稱し、天御中主尊の裔彦久良爲命の子なり。
垂仁の朝北狄を平げたる功に依、大幡主命と改稱せられし
と云ふ。明細帳の大股主命とあるは後考を要す(大股主の股
は服の誤寫ならん)とする。今村人の語るところでは、「昔
祭神がこの村へきて賊を退治した。その場所は村はずれの
ワセリという場所で、その時矢を射たところがウツボガヒ
ラ、隣村のヤガラ(失柄)はその時の矢がらがとんだとこ
ろ」と説明する。 神階については三代實録元慶七年(八八三)二月二日己 亥條に「授二佐渡國正六位上大幡神従五位下一」とある。明 治三十九年懸肚に列した。 尚大幡社は吉井の青龍寺村(現在の兩津市旭〉から移轉し たといふ傅承が國仲地方にある。 −『式内社調査報告』− 祭神 佐渡志に大幡主命を祀るにやと疑ひたり、明細帳に大股主命を祭るとあるは何に拠りたるか疑はしければ従 ひがたし。志に云へる説は豊受宮祢宣転補次第に大若子命一名大幡主命云々、彦久良為命第一子也。越国荒振凶賊阿 彦在……幡主罷り行き取平テ……天皇歓給テ大幡主名を加給キとある大幡主命の名と社号と似たる上に越国に下りし こともあればかくよれるなるべし。されど大幡神必しも大幡主命と定めがたくなむ 神位 陽成天皇元慶七年二月二日授佐渡国正六位上大幡神従五位下 祭日 九月十一日 社格 県社 所在 大倉村(佐渡郡外海府村大字大倉) −『式内社の研究』− |
【 大幡神社 】