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石井神社
いわいじんじゃ
新潟県柏崎市西本町2−3−6
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新潟県柏崎市にある。
柏崎駅の北、商店街のような通りの西はずれに鎮座。
周囲には、お寺が多く、寺町のような雰囲気だ。
商店街アーケードが途切れた所が、境内入口。
「延喜式内」の社号標が立っている。
参道を進むと鳥居があり、拝殿が正面にある。
境内には、幾つかの境内社がある。
神輿庫には神輿や獅子頭などもあった。
創祀年代は不詳。
社伝によると、中央より派遣された猪名真人大村卿が
住吉大神を柏崎の地に奉遷したのが当社の起源。
延暦八年(789)、地震により社地が陥没したため、
翌年石井の岡に遷宮し、石井神社とも称されるようになったという。
ゆえに、式内社・石井神社は当社であるという。
以前は、住吉社と称していたが、
寛永十一年、吉田家の許可を得て石井神社と改称した。
参道 |
鳥居 | 社殿 |
境内 |
社号標 | 本殿 | 稲荷社 |
境内社 | 境内社 |
越後国の国司として中央より派遣された貴族猪名真人大村卿(いなまのひと)が、大阪市住吉の住吉大明神を柏崎の地に奉遷した年月は不詳ではありますが。 慶雲二年(七〇五)に北夷征討鎮護の祈願を行い、又慶雲三年(七〇六)には旱魃甚だしく、農作物は勿論人畜にまで影響するに至り、雨乞いの祈願をしたところたちまち、霊顕著しく篠つく雨が降ったという事であります。宝亀九年(七七八)勅令により大祓が執行されました。今尚続いている当神社特有の輪くぐりの神事は当時の古式に依るものであります。 延暦八年(七八九)、強震により社地陥没し、翌年石井の岡に遷宮しました。之が現在位置の石井神社であります。創立の際は住吉大明神と称したのでありますが、石井の岡に遷宮したことにより、地名に因み氏子は石井神社とも称するようになりました。延喜式神名帳に御記載ある石井神社が即ち当社であります。 延暦十二年(七九三)、坂上田村麿東夷征討の途次特に参篭して凶賊の殲滅を祈り、祈願文を奉納せられたのを始め武将の参拝多く、元亀年間(一五七〇〜一五七三)には上杉謙信佐渡征伐の途次海上御守護の御神である当社を参拝して奉幣並びに木製の獅子一対奉納せられました。 宝暦元年(一七五一)四月、社殿類焼し獅子一対の外は、悉く灰燼となりました。文政七年(一八二四)四月、再び社殿炎上。明治十三年(一八八〇)八月、三度炎上。此の時の大火災を酢屋火事と称し、八四二戸焼失しました。之は当時の柏崎の戸数約一八六〇戸の半数近くが罹災したことになります。 明治一六年(一八八三)四月、用材は桧材とし、本殿屋根は銅板ぶきとして造営の工を起こし、同年竣工しました。大火のあとわずか三年後の復興は明治時代の氏子の神社に対する信仰の深さをまざまざと感じさせるものがあります。 石井神社の祭神は、住吉大社と同じく、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)の三神で、住吉神社は他に神宮皇后が石井神社には息長帯姫尊が配祀されています。記紀神話によれば、イザナギノカミがなくなられたイザナミノカミを訪ねて黄泉(よみ)の国へ行き穢れを受けて逃げ帰り日向の国で海中に入って禊をした時に生まれたことから、三神は、祓の神、海の神、歌道の神、国家守護の神として信仰されています。 昭和三十年(一九五五)九月十八日に1250年祭が執行されました。従って、慶雲二年(七〇五)を以て創立の年としていることになり、平成十七年(二〇〇五)が一千三百年祭に当たります。 −『平成祭データ』− 柏崎市西本町の石井神社は、近世(寛永十一年)、吉田 家の裁許をうけて社号を石井神社に改めた社であるが、本 来住吉神社として信仰をあつめた社である。 −『式内社調査報告』− |
【 石井神社 (西本) 】