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旦飯野神社
あさいのじんじゃ
新潟県阿賀野市宮下195
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式内社 越後國蒲原郡 旦飯野神社 |
新潟県阿賀野市にある。
羽越本線水原駅の南東、約4Km。
55号線の側にある、旧笹神村
西は田園地帯。東には長嶺山があり、その西麓。
赤い両部鳥居の奥に神門があり、細い階段が丘の上まで続く。
階段上は境内。社殿がある。社殿横には、境内社が4つ。
雨がしとしとと降り始め、五月の新緑が活き活きとした神域だ。
創祀年代は不詳。
式内社・旦飯野神社の論社だが、
中山村から遷座した式内社・中山神社とする説もある。
従来は、山浦八幡宮と称しており、応神天皇を祀る。
代々鈴木家が、神職を続け、その祖、長野麻呂が勧請したもの。
氏子というものが存在せず、鈴木家の私的神社という位置付けである。
よって、当地の産土神というものでもない。変わったお社だ。
御朱印をいただき、宮司からいろいろとお話をお聞きした。
中でも興味深かったのは、「天灯」の話。
昔、佐渡方面で、光り輝く玉が出現し、佐渡の人々が後を追ってみると、
この地、この丘の上に降臨した。訪ねて見ると、旦飯野神社があったという。
隠岐の伊勢命神社でも同様に
光る玉の伝承がある。日本海側に多く見られる話だ。
日本海では、蜃気楼などの自然現象も多く、その中の一つとも思えるが、
新羅の天之日矛が、赤い玉から生れた阿加流比売を追って日本へ来たという話と
関連があるのではないだろうか。
境内社が四つ。風神社・香椎神社・大三輪神社・三峰神社。
風神社の祭神は、志那都比古・志那都比賣だが、
社殿には、素焼きの盃が幾つかぶら下がっていた。
風の神は音の神であり、耳の神でもあるということで、
ぶら下がった盃は耳を表すということ。
また、福岡にある香椎宮が、ここにあるのも面白い。
入口鳥居 | 神門 |
鳥居扁額 | 神門から参道 | 階段上から |
階段上の社殿 |
拝殿 | 本殿 |
境内社 | 境内社 | 境内社 | 風神社 |
稲荷社 | 鳥居脇の石 |
延喜式内社旦飯野神社記
一、祭神 誉田別命二、由緒 長野麿(神官の大祖)なるもの応神天皇の御弓、衣、石を斉祭、仁徳天皇御宇元年八月十五日大山守皇子へ貢米奉る、此時に角鹿笥大神、飯津神を奉祭すれば汝の里に百姓に種物出来るとの御教に因て旦飯野神社と号し奉祭、仁徳天皇御宇より永正まで四度造営、永正三年五月二十日造営又享保四年十月元宮と称す地に造改、寛政四年三月(一七九二年)本宮地へ奉祭造替て現今に至る、明治四年十二月第廿四区郷社の許可を受く、同六年二月十日第廿四区村社の改号を受く、その後区改正に付廿二区小三区村社又郡区に付社格は村社と称す、元亀前上杉公の臣家笹岡旧城主山浦国清、今井源右衛門両殿の崇敬社と被定候、祖先より子孫次々三十八代藤原朝臣儀形まで官位ありて神勤せり四十代儀形の子儀定寛永十七年四月十六日(一六四0年)に神道吉田流(京都)より神官の許状を請此より後代は皆吉田殿より許状を請たり、祖先より子孫代々(小職六十五代)山浦神主と名のり四時祭式を怠たる事無く神明に奉仕致し居り(越後野志記、神職文化中マデ代オ重メル事五四世相続キ絶エズ)社の峯に新池古き泉水あり、北隅に神遊苑と称する所ありしが今草木茂りて荒廃せり(元馬場跡)大門、鳥居前は北陸道、南方は菱ケ嶽、東方は出湯の湯、後方は五頭山に当り、社地老樹森々として枝を交へ鷺は群り住居して風致極めて清雅なり(越後野志記、社地方八町許山林松杉老樹繁茂シ実ニ神サビタル霊地也) 祭典は旧暦正月十五日、七月十五日、八月十五日且つ八月十五日は甘酒祭りを行う(安政年間まで) 七月十五日は農耕馬による奉納競馬を遠くは中条、黒川方面より出走して行い大変な賑わいとなる(昭和三十五年七月十五日まで) 尚寛保三年(一七四三年)山浦八幡宮霞氏子帳には当時各部落氏子名記あり(一部新村は記載なし) −『平成祭データ』− 【祭神】誉田別命を祭る。豊受姫命を配祀し、天照皇大神・天児屋根命を相殿す。応神天皇の弓・衣・石なども祭る。 【由緒】従来、山浦八幡宮と称されてきた。創立年月不 詳。鈴木家の祖長野麻呂が誉田別命を奉斎したのが始まり といふ。永正三年(一五○六)・享保四年(一七一九)・寛 政四年(一七九二)の度造替。明治四年十二月第廿四区郷 社の許可をうけ、同六年一月第廿四区村社と改号す。 中世においては、上杉家の臣笹岡城主山浦国清・今井源 右衛門(文化元年の書上は山浦今井右衛門左と記す)の崇敬をうけたが、落城によつて 大破していたのを神官筑後正吉重が享保四年(一七一九) に再興したという。 【祭祀】例祭日は八月十五日。かってはこの日に甘酒祭 も行なはれた。甘酒祭は二代穂田麻呂が気比大神五穀の神 を奉祀した故事に由来するものであるが、安政年間(一八 五四−六○)までは八月十四日に初穂米を献じ、それを甘酒 にして参詣者にふるまっていた。その後新嘗祭と同日に米 の品評会を兼て復興されたこともあったが、現在は行なわ れていない。七月十五日にも祭典があり、昭和三十五年迄 はこの日に農耕馬による奉納競馬が行なはれた。 【氏子・崇敬者】氏子数は明治十六年に二七戸。しかし 当社では、祭礼や社殿の修繕等は一切鈴木家が行ない、氏 子の意識は強くない。従って氏子数というとらえ方ではな く、崇敬者でとらえている。現在は約一、二○○戸の崇敬 者がある。 −『式内社調査報告』− |