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昌言社
まさのぶしゃ
長野県埴科郡坂城町大字坂城8340−ロ
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長野県の坂城町にある。
しなの鉄道・坂城駅の北東6Kmほどの平沢に鎮座。
坂城駅から北東へ進み、上信越自動車道を越えて山へ。
当社へ続く道は何本かあるようだが、
一番の近道が工事中で通行できなかったため
まず和平高原にあるキャンプ場を目指す。
キャンプ場へ向かう道の途中に、
当社へ続く道への入口があるのだが
当日の道路は残雪が凍って滑りやすい路面。
仕方がないので車を止めて、雪道を1Kmほど歩いて参拝。
狭い道のわきに当社の杜がある。
垣に囲まれて、大きな開墾記念碑があり
その脇に小さな石祠が一つ祀られている。
文久年間(1861〜)の創建。
当地の開墾功労者である稲玉徳兵衛昌言を祀る神社。
稲玉徳兵衛昌言は文政五年(1822)に生まれ、
明治五年(1872)に没した。
当時の平沢地区は荒れ果てた原野で人民も貧しかった。
宿場役人であった稲玉徳兵衛昌言は、桑林による開墾を進めた。
多額の私財を投じ多くの苦労と反対にあいながらも桑林試作に成功。
村民の生活向上に寄与した。
村民は稲玉徳兵衛昌言に感謝し、文久年中小祠を建立して、
稲玉徳兵衛昌言を生祠に、生きながら神として祀った。
稲玉徳兵衛昌言の没後に再建され
その横に「稲玉徳兵衛開墾」と刻した記念碑が建立された。
このように、日本の各地には、それぞれの土地の繁栄を願って
奮闘苦労した人々、犠牲になった人々が祀られている。
境内 |
昌言社祠と開墾記念碑 |
坂城町指定史跡 稲玉徳兵衛開墾之碑及び昌言社
記
稲玉徳兵衛(一、八二二〜一、八七二)は、
坂木村、立町油屋に生まれ、村の年寄
役を勤めた江戸時代末期の殖産功労者
である。嘉永年間、千曲川の氾濫により、た びたびの田畑の流失被害で、食糧不足 を来たす状況を憂い、反対者をも説得 し、同志を糾合して努力すること約二 〇年、ついに二一八ヘクタールの山野を 開墾して耕地と化した。安政三年里人 はその恩を感じ、徳兵衛大明神と崇め、 現地平沢山に祠を建て生きながら神に まつった。明治六年生祠昌言社が再建 され、その横に後の長野県令楢崎寛直 氏の筆による「稲玉徳兵衛開墾」と刻 した大記念碑が建立された。 −境内案内板− |
【 昌言社 昌言神社 (坂城町) 】