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塩野神社
しおのじんじゃ
長野県上田市前山字塩野1681
岩高き塩田の川に舟うけて さし出る月の影を見しかな
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JR上田駅と別所温泉を結ぶローカル線上田交通の舞田駅から、
南へ約2Km強、前山にある。周囲には中禅寺などの寺院もあり、
信州の鎌倉として、観光名所になっている場所だ。
塩田平の南に聳える独鈷山の麓、
独鈷山を水源とする塩野川のほとりに鎮座している。
境内前に、独鈷山登山口があり、そこに当社の鳥居が建っている。
独鈷山山頂には奥社があるらしい。
塩田平は年間降水量が1000ミリに満たない乾燥地であり、
塩野川および、その源である独鈷山への信仰は自然の成り行き。
通常境内から遠い場所にある神社が一之鳥居で、
二之鳥居、三之鳥居と境内に近づくのだが、
当社の場合、境内の森の中にある鳥居が一之鳥居で
登山口にあるのは二之鳥居らしい。
一之鳥居から二之鳥居まで馬場になっていて流鏑馬神事が行われていた。
境内入口をはいり、杉檜の参道を進むと、塩野川を渡る神橋があり、
拝殿は二階建楼閣造、流造本殿彫刻とともに、すばらしい。
創祀年代は不詳。
式内社・鹽野神社の論社の一つだが根拠は薄いらしい。
社伝によると、白鳳元年四月出雲大社より、
塩野入の鷲岩に勧請されていたが、後に現在地・塩野へ遷座。
塩野大明神と称されて、西塩田の産土神であった。
永禄十一年(1568)四月、武田信玄が社領十貫文を寄進。
天正十五年(1587)真田昌幸がさらに七貫文を寄進。
この頃から、単に大宮とも称するようになったという。
明治六年四月村社に列し、その後、郷社、県社へと昇格した。
社叢の中に鎮座しており、雰囲気は素晴らしい。
参道周辺に幾つかの境内社があり、鳥居の先に神橋がある。
境内右手には、幾つかの巨石が並ぶ磐座で、それぞれの石祠がある。
木漏れ日の中の磐座は、次元を超えた存在感がある。
独鈷山と登山口に建つ二之鳥居 |
二之鳥居 | 登山口から独鈷山 |
流鏑馬神事が行われた参道 | 境内入口 |
杉檜の茂る参道 | 御神木 |
境内 |
境内左右にある下諏訪社 事代主命 と 上諏訪社 健御名方命 | |
一之鳥居 | 神橋 |
神橋 |
境内社殿 |
本殿前には二階建楼閣造の拝殿(勅使殿)がある。
境内案内図や式内社調査報告では、
境内左手流造の社殿が勅使殿となっている。
参拝中も数組の観光客が参拝(見物?)に訪れていた。
交通の不便な所だが、ハイキングコースにもなっている。
勅使殿と本殿 |
上諏訪社の前に境内社 十二社 飛来姫命 あるいは伊勢社 天照皇大神 あるいは子守社 木花咲耶姫命か | 本殿左手に勅使殿 |
境内右手に磐座群があり、それぞれに石祠が設置されている。 木漏れ日の中の磐座は神秘的だ。 |
社殿の後方に、山上へ続く山道があり「月見堂」と案内があった。
登ってみると、明治時代に地元青年会が作ったものらしい。
見晴らしも良くハイキングには良い運動かもしれないが、参拝目的には不向き。
説明は、山道の登り口に書いておいて欲しかった。
月見堂 | 月見堂から塩田平 |
創立年月は不明であるが社傅によると、白鳳元
年四月出雲大杜より分靈を勧請し鹽野入鷲岩に斎き祀つた
と傅へ、その後、今の鹽野に遷座し鹽野大明神と稱へ西鹽
田村の産土神となつた。永禄十一年(一五六八)四月、武田
信玄社領一○貫文を寄せ、天正十五年(一五八七)眞田昌幸
更に本村の内七貫文を寄附す。此時より大宮と稱した。元
文年間(一七三六−四一)に至り鹽野は本號にして大宮は其
の美稱たるに過ぎざるを以て吉田家に請ひて鹽野の本號に
復すといふ『宗源宣旨』を得た。明治維新までの舊社領は
二貫八五八文であつたが、維新の際に上地する。明治六年
四月村社に列し、同二十八年九月郷杜に昇格、同四十年神
饌幣帛料供進社に指定。
−『式内社調査報告』− |