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守田廼神社
もりたのじんじゃ
長野県長野市大字高田字八幡宮西沖174
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長野県長野市にある。
長野駅の北東2Kmほどの高田に鎮座。
19号線(昭和通り)の「守田神社入口」交差点から
北へ入ると当社正面。
木製鳥居をくぐると、垣に囲まれた広い境内で、
鳥居周囲には巨木が茂っている。
砂地の境内の中央に、石の参道がまっすぐ延びており
正面に立派な社殿。
入母屋造拝殿の後方に、祝詞殿・本殿と並んでいる。
当社本殿内には神殿があるらしい。
明治十二年、善光寺北側にあった善光寺守護神・年神堂が、
神仏分離により城山へ遷った際(現健御名方富命彦神別神社)に
当時の年神堂本殿を、当社へ移築したもの。
創祀年代は不祥。
式内社・守田神社の論社の一つ。
案内板によると、往古は守田沖に鎮座し守田八幡宮と称していたが、
焼失したため、長録三年に現在地へ遷座したという。
本殿内の神殿は、明治になって年神堂から移築されたものだが
御神体は、年神堂から元禄十二年に移されていたらしい。
案内によると、御神体は善光寺御堂再建の際、
守護神として安置されたものだが、
正安三年、八幡堰修理のため、年神堂へ移していた。
その後、貞享三年大勧進ならびに法輪院本覚院に
「高田の地へ遷せ」との神託があり、
高田の地にあった守田八幡宮神主にも同じ御告があったため
双方協議して、元禄十二年、御神体を年神堂から移したという。
よって当社には「神体勧請社八幡宮」という額がある。
式内社・守田神社の論社ということは、
本来は守田神社であったものが、後に八幡神が勧請されて
守田八幡宮となったのだろう。
宝暦六年(1756)には、
吉田家から旧称の守田神社の称号で幣帛を受けている。
ところが、文政年間(1818〜1830)、
式内社論争によって、
長沼穂保の守田神社ならびに古間の守田神社の二社より
異議を唱えられた時、
当時の神主が幼かったため、他社の神主が対応し、
その結果、天保十年(1839)社名に
「廼」の字を加えてしまったという。
境内には境内社が2つ。
一つは、朱の鳥居をもつ大きな社殿の守田廼稲荷社。
(宇迦之御魂神 猿田彦神 大宮能賣神)
もう一つは、小さな石祠の交通安全守神(八衢彦神 八衢姫神)。
鳥居 | 境内 |
境内 |
社殿 |
守田廼稲荷社 | 交通安全守神 |
本殿・祝詞殿 | 社殿 |
守田廼神社(延喜式内社)
−境内案内板−
流れ造りは仏教の影響を受けて平安時代初 期に成立した様式と考えられている。 この社殿の場合、正面が三間、側面が一間 屋根が木羽板葺で正面中央に五段の階段があ る。特に部材に施された彫刻が簡素で、その 上に塗られた彩色も控えめな点に特徴がある 一般に江戸時代の神社と仏閣は、徐々に過 剰な装飾を全面に持つようになる。しかし、 過飾に至っていないこの姿は江戸時代の最初 期を表すと考えるのが的確であろう。 明治時代の初めに、この社殿は神仏分離を 経て、善光寺の北からこの地に移されてきた。 側面にみえる部材の一部を切り縮めた痕跡 は、移築の際のものという。 −境内案内板− |