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西奈彌羽黒神社
せなみはぐろじんじゃ
新潟県村上市羽黒町6−16
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式内社 越後國磐船郡 西奈彌神社 |
新潟県村上市にある。
村上駅の東1.5Kmほどの羽黒町に鎮座。
村上市役所の南500mほどの山居山の山腹に境内があり、
道路に面して北向きに、境内入口がある。
鳥居の右脇に、「西奈彌羽黒神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり、参道を進むと階段がある。
階段の麓、左手に神輿殿。
階段を登ると、途中に鳥居。
右手にカーブしてさらに登ると手水舎。
さらに登ると朱の鳥居があり、
鳥居の奥、正面に社殿。
参拝は、八月盆休みの午後。
下の鳥居の横に、
ブルーシートを被せた船形の屋台が置かれていた。
社伝によれば、持統天皇元年(687)、
西奈彌山に、西奈彌神社として鎮座。
天正十六年(1588)に村上城主本荘繁長公が、
庄内の最上氏や東膳寺氏を攻めた時、羽黒山大権現に戦勝を祈願。
庄内地方平定の後、凱旋の際に羽黒三所権現の御分霊を勧請し、
領内の総鎮守とした。
後に臥牛(がぎゅう)山の麓の二本松に移され、
元和四年(1618)に堀丹後守直奇が村上城主となった時、
城郭と城下町の構築を大々的に行われた際に、
総鎮守のお宮を城から見下しては恐れ多いとして、
新田町の清浄な高台(現在地)に社殿を造営し、
寛永十年六月七日に遷宮された。
境内左手に、摂社・神明宮(天照皇大神 合祀 鈿女命)。
神明宮の隣りに、松尾神社(水波之女命)。
摂社・神明宮の本殿が、当社の元禄三年に建造された旧本殿。
明治十四年の本殿新築の際に移築したもの。
境内右手に、稲荷神社(倉稻魂命)。
拝殿の右手にもいくつかの祠や石が祀られているが
詳細は不明。
社殿や、参道の旗には、三本松の紋が付けられていたが、
灯籠や賽銭箱には、三つ巴の紋が付いていた。
西奈彌神社としての紋と、羽黒神社としての紋があるのかもしれない。
社号標 | 境内入口 | 参道階段 |
参道 | 参道上から | 参道 |
境内 |
摂社・神明宮 | 拝殿 |
摂社・神明宮 | 本殿 |
境内 |
境内社 | 境内社 |
羽黒神社 神明宮
羽黒神社は、出羽庄内の羽黒三社権現をまつったもので、
はじめ臥牛山にあり、寛永10年(1633年)現在地に移さ
れた。 境内の神明宮神殿は元禄3年(1690年)に、当時
の村上15万石の藩主榊原式部大輔勝乗侯によって建立さ
れたもので、桃山風の建築様式で県の文化財に指定されて
いる。 なお、羽黒神社の遷宮祭を行った七月七日は、村
上大祭として榊原侯寄進の三基のみこしと村上の漆工芸の
粋をあつめた屋台が豪華にくり出される。
−参道案内板− 西奈彌羽黒神社
当社は、村上市村上羽黒町に鎮座しており、奈津比売大神、倉稲魂大神、月読大神をお祀りしています。社伝によれば持統天皇の元年(六八七)に西奈弥山に鎮座の由とありますので、延喜式の西奈弥神社との関係が考えられます。往時、西奈弥羽黒山三社大権現と称していたのは、天正十六年(一五八八)に当村上の城主本荘繁長公が、出羽庄内(今の鶴岡市附近)の最上氏や東膳寺氏を攻めた時その地の羽黒山大権現に戦勝を祈願し、めでたく庄内地方を平定して手中に収めたので、凱旋の際に羽黒山の御分霊を勧請して、この地方の総鎮守として祀られたからです。始めは今の庄内町の地にありましたが、その後に臥牛(がぎゅう)山の麓の二本松という処に移され、元和四年(一六一八)に堀丹後守直奇公が村上城主となられて、城郭と城下町の構築を大々的に行われた際に、総鎮守のお宮を城から見下しては恐れ多いとして、新田町の清浄な高台(現在の場所)に社殿を造営し、寛永十年六月七日に御遷宮されました。 当社は歴代の藩主の信仰が厚く、社領田や社料米の御寄進があり、社殿の造営や修理はすべて藩の仕事として行われてきました。明治維新以後は村社から郷社に、そして県社となり村上はもとよりこの地方の人々の崇敬厚い神社でした。その事は戦後の混乱期も現在も変ることがありません。 摂社の神明宮は寛文十二年(一六七二)に藩主榊原熊之助政倫公の勧請です。この社殿は元禄三年(一六九〇)五月に時の藩主榊原式部大輔勝乗公が羽黒山三社大権現の御本殿として建てられたものです。明治十二年から現在の羽黒神社の社殿の造営が行われたとき、神明宮の社殿とされました。昭和四十四年に新潟県文化財として指定され、翌年八月から解体復元工事を、県と市の補助金を仰ぎ氏子はじめ各方面から寄進された浄財で行い、昭和四十六年五月二十四日に元禄の昔の華麗な姿に復しました。社殿の前の、新潟県文化財神明宮社殿の石柱は、新潟地震で大破した大鳥居(享保十四年に前藩主間部公が越前鯖江から寄進)の柱の部分を用いたものです。 当神社の祭礼は七月七日に行われます。これは寛永十年の御遷宮の日の六月七日を毎年の祭礼日としてきたのですが、明治になって新暦に改められてから七月七日としたものです。 この祭礼には三基の神輿が町中を御巡行になります。神輿は寛文九年(一六六九)に榊原家から御寄進になり、嘉永五年(一八五二)に時の藩主内藤信親公が大修造をされ、去る昭和四十八年に氏子の御寄進によって再度大修復が行われました。 神輿の御巡行には、庄内町の少年が奉仕をする荒馬十四騎が前駆し、十九台の華麗な屋台が供奉します。 屋台は全部で十九台。うち六台は囃車(おはやし)・八台がシャギリ車で、いづれも村上の工匠たちが腕を競って作ったもので、彫刻と漆の技術の粋を結集したものです。その半数以上が明治以前のもので二百年を越すものが三台もあります。 荒馬は本荘繁長公が羽黒山の御分霊を奉じて凱旋された姿を模したものです。それぞれの武将の旗印を背に立て、浅葱染の衣装に古羅紗の腹掛、手甲脚絆の姿も凛々しく、白馬・黒馬・鹿毛・栗毛の轡をならして、掛声勇ましく行進する姿は圧巻といえましょう。 −『平成祭データ』− |