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蒲原神社
かんばらじんじゃ
新潟県新潟市中央区長嶺町3−18
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式内社 越後國蒲原郡 青海神社二座 |
新潟市長嶺町にある。
JR新潟駅の1Km東に鎮座。
境内南側をJRが東西に走り、
境内東側は国道7号線(栗ノ木バイパス)が南北に。
この栗ノ木バイパスは、昭和48年に埋め立てられたもので、
昔は、万代島へ流れる栗ノ木川が流れていた。
国道に面して赤く背の高い鳥居が建ち、眼を引く。
東から西へ進む参道がある。
創祀年代は不詳。
式内社・青海神社の論社。
もとは金鉢山に鎮座していたが、
元禄元年(1688)、信濃川決壊により、
元禄三年現在地に遷座した。
明治までは「五社神社」と称し、
神紋も「亀甲に五の字」を用いている。
また、菅原道真を合祀しており、拝殿前には牛像と梅紋も。
五社宮とは、木火土金水の五行の神を祀ったもの。
久久廼知命(木)、迦具土之命(火)、埴山姫命(土)、
金山彦之命(金)、水波廼女命(水)がそれにあたる。
各地に伝わる「社日」の発展形と見ることもできそうだ。
主祭神は、椎根津彦命であり、
社伝では椎根津彦命の裔が蒲原郷に封ぜられたとある。
通称を「蒲原の六郎さま」と云う。
鎌倉時代、畠山六郎重宗という武士が、当社に籠もり、
託宣を得たことに始まり、五穀の豊凶を占うもの。
現在でも行われている神事である。
国道沿いにある赤い鳥居は、国道に近すぎるため、
反対側に渡って撮影した。
「神社名鑑」には、当社は五社神社とあり、
現在は蒲原神社。拝殿の額には青海社とある。
拝殿の前には、左右並んだ神楽殿があり、
渡り廊下で結ばれている。
その廊下を潜って参拝する形。
バイパス沿いの鳥居 | 裏から | 参道の鳥居 |
境内 |
神楽殿 | 拝殿 |
拝殿の額 | 本殿 |
平安朝の昔、椎根津彦命の後裔が越後国蒲原郡に封ぜられ、蒲原の津(港)に土着し
て、蒲原郷の総鎮守を創設し郊外の金鉢山に鎮座した。日本海の青い海を眺望する影
勝の地に位していたので青海神社と言い『延喜式』に青海神社二座と記載されている
。式内社が本社の前身であった。 本社は鎌倉時代まで栄えていたが、南北朝時代に下越後の南朝方が蒲原の津を根拠地 と定め、金鉢山に蒲原津城を築いたので、本社は否応なしに南北戦争に巻きこまれ、 その結果北朝方の完勝で戦争が終結した時、本社は敵側の神社として廃滅処分され、 その神官も全員追放処分された。神官たちはその後中国伝来の五行の五神を祀り「五 社宮」と称して辛うじて生き残ったと推考される。 戦国時代末期に新発田重家が信長と結んで上杉影勝に背き越後の覇権を争った時、金 鉢山に青海神社の生残りがいることを知り、その社殿を建築してやり、自らも新社に 参詣して戦勝祈願文を奉納し、社領十町歩と太刀等を寄進し、在世五年間に五社宮に 種々貢献したので、廃社寸前の神社は摂社末社四十余社を支配する神社に復興するこ とができた。 −『平成祭データ』− |