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浅間神社
あさまじんじゃ
山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684
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山梨県の笛吹市一宮町にある。
一宮支所の東500mほどの場所に鎮座。
南西2Kmには甲斐国分寺跡があり、
古代の甲斐国の政治的中心地にある。
20号線そばに大鳥居があり、参道を北に歩く。
神門をくぐり、境内に入ると、左手の社殿は東向き。
拝殿の後方に流造りの本殿があり、その横に夫婦ウメの木がある。
拝殿の正面と、北入口の側に立石が立っている。
立石の左右にはボール上の丸い石。
明らかに男根を示す石だが、拝殿前の石には子持石という名が付いていた。
山梨の神社には、こんな立石や、丸い石が多く見られる。
甲斐国一宮。
社伝によると、垂仁天皇八年、
現社地の南東2Kmにある神山の麓に創祀され、
貞観七年(865)、現社地に遷座したという。
三代実録によれば、貞観六年五月二十五日、富士山の大噴火があり、
これは、富士山を祀っていた駿河国浅間神社の神職の怠慢であるとして、
富士山北側にある甲斐国でも、浅間神を祀るべしと、
貞観七年十二月九日、勅により甲斐国八代郡に浅間明神の祠を建て官社とした。
当時、八代郡では暴風や大雨などの天変地異が続き、
伴直真貞の託宣により、甲斐国に浅間明神を祀るべしとして、
郡家の南に、伴直真貞を祝として祀ったが、まだ神意に叶わず、
改めて立派な社殿を造営した。
また、山梨郡にも、八代郡と同様に浅間明神を祀ったともある。
この三代実録の解釈に異説があり、式内・浅間神社の論社が存在する。
まず、真貞の託宣により最初に八代郡に祀られた神社が式内社であるとする説。
次に、後に建替えられた神社が式内社であるとする説。
さらに、山梨郡に建てられた神社が式内社とする説。
また、三代実録に記載された官社は、国史現在社ではあるが、
延喜式制定当時の官社と同じかどうか不明であり、
さらに、甲斐国一宮とされた浅間神社が、三代実録や延喜式に記載された
神社と同一であるかどうかも、異論のあるところ。
当社の関しては、三代実録にある、山梨郡に祀られた神社と見る説が有力だが、
延喜式制定当時には、八代郡であった可能性もあり、式内社であるとも。
さらに、国分寺や国衙に近く、一宮であった可能性が高いようだ。
往古、甲斐国では大雨が多く、しばしば百川が氾濫していた。
そこで、当時の国司が一宮、二宮、三宮の三社に勅して、
水防の祭事を行なわせ効果があったという。
その数百年後、再び洪水被害が続いたため、
諄和天皇天長二年、勅して三社により、
旧竜王町の釜無川の土手(信玄堤)にある三社神社への神幸が行なわれた。
20号線にある大鳥居 | 境内入口の鳥居 |
神門 | 神楽殿 |
拝殿 |
社殿 |
拝殿正面の子持石 | 本殿と手前に夫婦ウメ | 北入口の立石 |
本殿の右手には祓門という、人型にくり抜かれた石があり、
これをくぐって穢れを祓う。
また、十二支の石像が並び、富士山型にくり抜かれた石もある。
その一番奥に、丸い石があったが、顔が書かれていたような。タコ?
祓門 | 富士石 | タコ? |
成就石 | 十二支石像 |
子 | 牛 | 虎 | 卯 |
辰 | 巳 | 午 | 未 |
申 | 酉 | 戌 | 亥 |
浅間神社の略誌
第11代垂仁天皇8年正月始めて神山の麓に鎮祭す。今ここを山宮神社と称して摂社たり。。第56代清和天皇の貞観7年12月9日現在の地に遷祀せらる。甲斐国の一宮にして延喜の制に於ける明神大社たり。明治4年5月14日国幣中社に列せられる。本殿は流造銅板葺、拝殿は入母屋破風造銅板葺なり。境内は3395坪(1ヘクタール余) −『平成祭データ』− |