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入登山神社
にゅうとうざんじんじゃ
長野県下伊那郡下條村大字陽皐3898−2
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長野県の下條村にある。
飯田線・天竜峡駅の南西12Kmほどの下條村陽皐(ひさわ)に鎮座。
151号線を南下し、83号線と交差するあたりから西へ進むと、
キャンプ場やマレットゴルフ場のある入登山ふれあい公園があり、
その公園の西奥に当社の境内がある。
当社の奥宮は汗馬山や亀沢山への登山道の途中にある臼小屋という山上にあるらしく、
登山の安全を見守る故に「入登山」という社名になったという。
参道を進むと奥宮参道「十四丁」と記された石碑が立っており、
境内には「十五丁」と刻まれた石碑がある。
これは奥宮までの距離ではなく麓からの距離のようで、五十丁まであるらしい。
ちなみに奥宮はこのあたりにあるようだ→
境内入口は東向き。
参道左手に手水舎があり、参道を進むと地元戦没者を祀る生霊宮や不動明王。
さらに進むと鳥居が二基あり、鳥居の奥に当社の社殿。
入母屋造の拝殿の後方に覆屋に納まった流造の本殿。
本殿の左手に奥宮遥拝所や摂社の浅間神社(木花開耶姫命)が祀られている。
拝殿の右手に絵馬堂があり、中に山犬退治図の絵や災害救難の御礼絵馬が掲げられている。
山犬退治について。天明七年(1787)五月二十七日、
草刈馬数十頭を野飼いしていた時、山犬が走って来て馬を食い殺した。
市蔵という子が驚いて大声で叫び、佐助という若者がこれを聞いて駆けつけ
大声で「南無高津権現様」と当社の神の名を唱えつつ
鎌で山犬を斬り伏せ、自分には傷一つ受けなかった。
その鎌とお礼の額が当社に奉納されている。
災害救難の御礼絵馬について。明治四十四年八月四日、
未曾有の暴風雨により茂都計川が増水氾濫の危機に至り
伊賀良村では数十丈の崖が崩落し子供を含めた村人十人が埋まってしまった。
その時すかさず「入登山高津権現」を念じ、全員無事に難を逃れることができた。
その年の十月十四日例祭の日に奉納された絵馬で救われた十人の合掌姿が描かれている。
このように様々な御利益により大事に祀られている神社。
また、当社境内は標高777メートルの位置にあり勝運に御利益があるらしい。
通称は、権現さま。
社伝によると、清和天皇第十一世の末裔正四位下信濃国守小笠原長清四世の子孫
下條伊豆守頼氏が、応永元年(1394)
甲斐国の下條村(現在の韮崎市藤井町北下條・藤井町南下條あたり)より奉遷し、
武運長久、衆庶の福祉安泰の祈願社として直祭したのが当社の創祀。
その後、永正元年(1504)七代下條伊豆守家氏が、
社地を臼小屋の中腹(現在地)に定め、社殿を造営し里宮とした。
神祇菅領長神宣状により弘化四年(1847)二月八日、
入登山高津大権現と称えまつる。
境内には浅間神社などの他に、天満宮の石碑や芭蕉句碑なども。
入登山ふれあい公園 | 参道 |
社頭 |
生霊宮 | 不動明王 |
参道 | 鳥居 |
境内 |
社殿 | 災害救難の御礼絵馬 |
拝殿 | 本殿 |
拝殿扁額 | 奥宮遥拝所 |
浅間神社 | 天満宮 |
芭蕉句碑 | 奥宮参道十五丁石柱 |
神社概要
−境内由緒書− 入登山神社の御祭神と御神徳
お多賀様は産霊の神であり縁結びの神である。 タレントの峰竜太も当社で結婚式を挙げている。 お諏訪様は果敢な動きによって幸運を勝ち取る神で ある。 さらに当社は標高七七七メートル(スリーセブン) の地にあり、スポーツ・ゲーム事の勝運にも恵ま れる。 浅間様は農業の神と同時にお子安様として子宝に 恵まれ、安産の神でもある。 −境内案内板− |