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關山神社
せきやまじんじゃ
新潟県妙高市関山4804
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式内社 越後國頸城郡 大神社
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北陸自動車道上越I.C.から18号線を一気に南下。
妙高市の関山交差点で西へ進むと鳥居正面へ。
妙高山の麓になるが、やや遠い。
境内は鬱蒼とした雰囲気で、かなり広く、社殿も立派だった。
社伝によると、元明天皇和銅年間、裸形上人の開基。
関山権現ともいい、仏教色の強い神社。
式内社・大神社の論社の一つ。
祭神は三柱。
中尊に関山大権現の国常立尊。本地仏は聖観世音菩薩。
左尊に白山臺権現の伊弉冊尊。本地仏は十一面観世音菩薩。
右尊に新羅大明神の素盞鳴尊。本地仏は文珠菩薩。
拝殿の額には、祭神の本地仏である
文殊・観音の菩薩像の写真が掲げられている。
嵯峨天皇の御代、弘法大師が妙高山に参籠し、
本社七堂伽藍をを造営した。
真言修行の道場だったらしい。
明治になって神仏分離の結果、
明治元年十月、関山神社と改称。
明治六年三月村社に列し、昭和六年七月県社に昇格した。
参道の神池の中に亀石があるのだが、
案内図を見ると、座禅石、夜具石、要石などがあるらしい。
また、周囲には仏足石や石仏群なども。
が、参拝時に見忘れてしまったようで、写真が無い。
社頭 | 鳥居 |
境内 |
参道脇神池の亀石 | 社殿 |
社殿 | 拝殿の額 |
社号標 | 参道 | 境内社・金刀比羅宮 |
関山神社
祭神中尊 国常立尊 聖観世音菩薩 左尊 伊弉冊尊 十一面観世音菩薩 右尊 素盞鳴尊 文珠菩薩 往古より妙高山村関山三社大権現と称されていた。古来妙高山は、裸形上人によって開かれ仏の山とされていた。神奈山には神様がおわし、和銅元年(七〇八)、悪疫流行の年を選び、麓の関山村に里宮として前記の三神が勧請された。嵯峨天皇の御代(八一〇)空海上人が、諸国廻歴の折りその神威を観窺し、帰京後帝へ奏上し、壮麗なる社殿を再建する。更に僧坊七十二区を栄築し、大いに仏徳を発揚する。 徳川時代になり、俊海法印が天海上人を通じ、関山霊社を中興せんことを徳川幕府へ懇願する。家康公の台命にて大久保石見守が境内を検分の上、社領百石御朱印を下し、妙高山始め五山とも山林竹木諸役免除を申し付けられ、再び旧時の盛観を得る。 明治維新により、朱印地は悉く上地を命ぜられ且つ、神仏混合を禁じられた為、明治元年十月十八日、関山神社と改称する。神社の社殿は、文化五年戊辰の年(昭和六十二年より百八十年前)に広く浄財の寄進を得、建築された。その範囲は、高田市、直江津町、新井町始め中頚城一円、新潟市、刈羽郡、魚沼郡、東頚城郡、西頚城郡、戸隠、野尻、針ノ木、飯山町、牟礼、柴津村、富臓村、長野市、野沢、古間の広い範囲でありました。昭和三年十月昇格申請し、昭和六年七月十三日県社となり、終戦まで続きました。 −『平成祭データ』− 『越後国式社考』に「大神社 在妙高山麓、矢代川辺或 云、関山権現」、『越後国式内神社案内』に「或者云、太ノ神 社ハ、妙高山麓矢代川ニ有ト也、予矢代川近邊巡拝スルニ 社ナシ、又云、關山寶蔵寺支配ノ關山権現カト云」とある が、『關山神社縁起』によると、「人皇四十三代元明天皇の 和銅年間、裸形上人の開基で、關山三社大権現と稱した。 のち人皇五十二代嵯峨天皇の大同年間、弘法大師が當山に 参籠し、本社並七堂伽藍を造營し、眞言修行の道場とした」 の如く、式内社大神社に比定する證據はなく、論社とする ことも出来ない。江戸時代、幕府より朱印地百石を附與さ れてゐた。明治維新の神佛分離で別當寶蔵院を廢し、關山 神社とした。明治六年三月、村社に、昭和六年七月十一日、縣社に昇格。 −『式内社調査報告』− |
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