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神坂神社
みさかじんじゃ
長野県下伊那郡阿智村大字智里字杉ノ木平3577
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長野県の阿智村にある。
阿智村役場の西12Kmほど、中央道の園原I.C.からは3.5Kmの智里に鎮座。
岐阜県との県境、神坂山(1684m)の南東側麓。
古代の東山道最大の難所といわれた神坂峠への登り口に境内がある。
園原I.C.から西へ、信濃比叡と呼ばれる広拯院月見堂を通過して
整備された車道を上って行くと到着。
社前には広い駐車スペースもある。
当社の正式名は「神坂(みさか)社」のようだが、
境内の鳥居や由緒書きには「神坂神社」。境内入口の社号標には「神御坂神社」とある。
参道を進むと右手に大きな石。
境内の由緒書きに日本武尊の腰掛石とも古代祭祀の磐座ともいう大石とあるが
この石のことだろうか。
さらに参道を進むと鳥居が立っており、階段の上に当社の社殿。
社殿の前や右手に巨木が聳えており、まさに神域といった感じ。
社殿そばの日本杉は、もとは二本あったが明治二十五年の暴風雨で倒れ、
その年輪では樹齢二千年以上だったらしい。
日本武尊が食事に使った箸をさしたところ巨木に成長したという伝承がある。
境内の左手奥に古代東山道の細い山道が続いている。
県境の神坂峠まで3.5Kmほどの自然歩道らしい。
徒歩で約3時間らしいので今回は断念した。
創祀年代は不詳。
住吉様とも称される神社で、墨江三前大神を主祭神とする神社。
一説には、筑前国を本拠とする安曇族が当地に移住し、峠の下に海神を祀ったという。
神坂峠に関して、
『古事記』に、倭建命が甲斐国より「科野国に越えまして、
科野の坂の神を言向(ことむ)けて、尾張国に還り来て」とあり、
『日本書紀』景行天皇四十年の条に、日本武尊が信濃の山中で白鹿となって現れた神に
蒜(ひる)を投げつけて殺したため道に迷って難渋したが白い犬に助けられ美濃に出たとあり、
以前は、信濃坂を越える者は、神の気を受けて病になる者が多かったが、
この後は、山を越えるものは蒜を噛んで人や牛馬に塗ると神気にあたらなくなったとある。
これらの、科野坂や信濃坂は神坂峠のことと見られている。
また『万葉集』の埴科郡の神人部子忍男の歌に
「千早振る神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父のため」とあり、
古代、旅する人々は峠の神に手向けして旅の安全を祈ったようで、
神坂峠にも古代の祭祀遺跡が残っている。
境内の由緒書きには合祀に建御名方命の名が記されているが、
「平成祭データ」には天津日子根命となっている。
社頭 |
境内入口 | 参道の大石 |
境内 |
社殿と巨木 |
境内左手に古代東山道 | 社殿横から |
阿智村史跡「園原の里」
神坂神社
園原の里の最も奥まったところに鎮座する神坂神社は、俗に住吉
様といわれ、表筒男命、中筒男命、底筒男命の三海神を主神とし、
日本武尊、誉田別尊(八幡神)、建御名方命(諏訪明神)、須佐之男
命(牛頭天王)が合祀されている。この山中に、わだつみ(航海)の神がなぜ祀られたかについては、 この神社の創建時期とともに明らかでないが、一説には安曇族が西 方から信濃国に移住して来た遺跡のひとつではないかともいわれて いる。相殿の神々は江戸時代中期以後の合祀である。 社殿は一間社流れ造りで、明治二十二年に木曽郡上松出身の坂田 亀吉(通称木曽亀)の建造によるものであるが、障壁、虹梁等の透 し彫りの精巧さが美事である。 境内には、樹令千年を超す日本杉や、数百年を経た栃の巨木数本 があり、社殿の横を通っていたと思われる古代東山遺跡と共に万葉 人の去来を偲ばせる。又、富山鉄斎揮耄による園原の由来を刻んだ 園原碑、北原阿智之助(痴山)揮耄の万葉集防人の歌碑、犬養孝筆 による万葉集東歌の歌碑、黒坂周平筆による凌雲集の漢詩磨崖碑、 日本武尊の腰掛石とも古代祭祀の磐座ともいわれる大石など、情趣 に富んだ石造文化財も多い。 ここから神坂峠まで古代東山道のルートをたどる自然歩道があり、 約六・五キロ、徒歩約三時間である。 −境内由緒書− |