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射手神社
いてじんじゃ
三重県伊賀市長田2691−1
あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手
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旧村社 |
三重県伊賀市にある。
伊賀上野駅の南西3Kmほど。
伊賀から京都へ向う163号線(伊賀街道)の側にある。
道路から少し南へ入ると、赤い鳥居。
参道を歩き、階段を登ると社殿がある。
階段横には、大きな銀杏の樹が聳えていた。
当社の神紋は、「銀杏」なのだ。
ひょっとしたら、社名の元は「いてふ」だったのかも。
などと思いながら参拝した。
創祀年代は不詳。
一説には、天武天皇の御代、射手山に勧請された神社だという。
社名が示す通り、武将の崇敬が篤く、
『源平盛衰記』にも記載されているらしい。
それによると、木曽義仲追討のため当地を訪れた源義経が、
所願成就を祈請したという。
近世には、射手大明神とも八幡宮とも称されてた。
伊勢から伊賀を抜けて京都へ通じる道の途中にあるためか、
西行法師も当社を訪れ、
「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手」
と詠んだという。
明治四十一年、境内社御霊社、多賀社、稲荷社、天満社、山神社、水神社を合祀。
寺垣鎮座無格社・津島神社、同境内社八柱社、
平垣内鎮座無格社・若宮八幡社、同境内社津島社、
トキ鎮座無格社・木根神社、同境内社津島社、
八幡鎮座無格社・八幡神社、同境内社津島社、
十王下鎮座無格社・比地社、湯山鎮座無格社・稲荷社、
山神鎮座無格社・山神社、宮山鎮座村社・八幡神社を合祀。
昭和四年郷社に列した。
当社の本殿の右横に、式内社・木根神社の小祠がある。
明治41年に、長田字トキに復興され村社となったが、
その後、由緒不詳とされ無格社となり、当社境内に遷座されたもの、
古社地には、いまでも祠が祀られている。
また、合祀されている字十王下鎮座の無格社・比地社は何処にあったのだろうか。
『式内社調査報告』によると、式内社・比地神社の論社は二つあり、
一つは神戸神社に合祀された比土の比地神社。、
もう一つは、当地長田の百田の比自山の社であるとある。
「十王下」とは当社の南500mほどの地で、藤堂高久公墓所のある場所。
比自山の東北麓で、比自山へ連なる長田山にある。
もし、合祀された比地社が比自山の社であれば、
当社には二つの式内論社が、無格社として合祀されていることになる。
社頭 |
鳥居 | 参道脇の十三塔 | 参道の階段 |
大銀杏 |
神門 | 拝殿 |
本殿 | 本殿 |
本殿左の津島神社 | 本殿 | 本殿右の木根神社・御霊社 |
由緒
一、御祭神 応神天皇、玉垂命他十三神を合祀。一、例祭日 十月十二日宵宮祭、十月十三日例大祭。 当神社は第四十代天武天皇瑞夢に依り射手山(現地より西へ二キロ三軒家の地)に勧請 し給ひしものにして九百年後の天正九年伊賀乱の戦災により焼失せるも仏性寺跡(現在 の社地)に移し奉り奉斎せるものなり(慶長十年の棟札あり)。 源義経、木曽義仲追討の際当射手神社に参詣戦勝を祈願せし折感応あり奉謝の為、矢を 奉納せしことは源平盛衰記に左記の如く記せり。 「是より長田里花園と云う所を廻りて射手大明神の前を笠置に懸ても道能候と申。 射手大明神とは何なる神にて御座ると問給へば其事までの事争知り候べきいとど は射手と書て候なれども申易きに付いとどと申候とは承と云ければ九郎義経戦場 に向ふにあをた首落道禁忌也射手明神可然とて長田里花苑を廻り射手大明神の前に下馬 し給ひ所願成就と祈祷して云々」 又茅栗双子に、「寿永の比木曽義仲を討亡し洛陽の譟を鎮めよと頼朝の命により大将に ハ三河守範頼勢多に向ふ九郎義経は搦手となり山城国宇治より都に入らんとし当国を押 通るその道條なれば長田の荘花園の宮射手社へ詣でそれぞれ武器を奉納し‥‥‥」 とあり。以来当社を戦勝勝運の神として崇敬する者多く勝運の神としての信仰を深めたり。 更に西行法師伊勢に住せし頃当社に度々参り来て読める和歌に、 「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手」 一、文化財並宝物 ◎ 石造十三塔(南方塔、鎌倉末期の作)重要文化財指定。 ○ 銅製経筒一口、経巻八巻(永暦元年)平安後期、旧重要美術品(現県文化財) 経巻八巻は朱墨交書経であり第七巻には永暦元年九月云々の朱書の奥書あり、 朱墨交書は数行又は一枚づつの書記であるのが注目すべき点である。 ○ 宝物は源義経奉納の矢鏃。棟札(慶長十年、元禄十年、享保四年、その他) 一、年間祭礼日 元旦祭一月一日。厄除祭節分当日。春季大祭三月二八日。新嘗祭十一月二八日 春祭当日は戦死者の慰霊祭が斎行され合せて上野市内高等学校の奉納弓道大会が行はれる。 −『平成祭データ』− |