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尾張大國靈神社
おわりおおくにたまじんじゃ
愛知県稲沢市国府宮1−1−1
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式内社 尾張國中嶋郡 尾張大國靈神社 |
愛知県稲沢市にある。
名鉄名古屋線国府宮駅の北東200mに南面して鎮座。
国府宮駅から東へ歩くと、非常に広い参道が南北に延び、
北を向けば、褐色の楼門。
南には、石造の鳥居が見える。
参道入口はどのあたりにあるのか見に行こうかとも思ったが、
先に、別宮大御霊神社に参拝し、参道入口まで歩くことを忘れてしまった。
ということで、一之鳥居、二之鳥居の写真が無いのだ。
でも、広い参道の中央を歩いていると、
青空に聳える参道の鳥居が美しいので、これも良い。
参道の突き当たりは、東西に車道が走っているので、
道路を横断して楼門をくぐる。
楼門の奥、正面には尾張造の社殿。
垣の中に本殿があるが、屋根しか撮影できなかった。
通称は、国府宮。
古代には、府中宮とも呼ばれていたようで、
国衙に近い、尾張国総社である。
戦国時代以降は、一貫して、国府宮と称され、
本来の尾張大國靈神社という社名が薄れ、
「高之宮」「光之宮」「鵠之宮」などとも記されている。
祭神は、社名の通り、尾張大國靈神。
大己貴命の御霊。
昔、五月六日、大己貴命が当地に降臨し、
尾張中島直の祖・天背男命と契り、尾張国を平定。
崇神天皇の御代、天背男命の裔によって、
大己貴命を祀る当社が創建されたという。
当社の神事に、「国府宮の裸祭」として有名な儺追神事がある。
旧暦正月13日の昼間、神男に触れようと、
裸の男たちが揉み合う神事。
本番は、翌日の午前3時に行われる、夜儺追神事で、
あらゆる罪穢の象徴である土餅を背負った儺負人(神男)を
神職が大鳴鈴を鳴らしながら境外に追い出すもの。
本殿の横に、五個の石を並べた磐境があるらしいが確認していない。
鳥居 | 広い参道 |
楼門 |
拝殿 | 本殿、屋根だけ見えた |
境内の東側には、境内社が六社並んでいる。
稲荷神社、司宮神社、神明社、居森社、白山社、三女神社。
境内社 |
境外東に、別宮宗形神社が鎮座。
式内・宗形神社と考えられている。
祭神は宗像三女神の一柱・田心姫命だが、
別名を角玉明神、隅魂神と呼ばれていたことから、
吾田片隅命とする説もある。
大歳神・倉稲魂神を配祀する。
もとは治郎丸天神にあったという説もあるが定かではない。
別宮宗形神社境内 | 宗形神社社殿 |
境外の西南に、別宮大御霊神社が鎮座。
式内・大御霊神社と考えられている。
祭神は大御靈神。大歳神の御子。
大歳神の御子神は多いのだが、御年神と考えると、
御霊(みたま)は御年(みとせ)の変化したものとも。
事代主神を配祀するが、境内には稲荷の祠も。
もとは松下村にあったという説もあるが定かではない。
別宮大御霊神社境内、左に稲荷社 | 大御霊神社社殿 |
本社・尾張大國靈神社と別宮宗形神社、別宮大御霊神社を総称して、
国府宮三社と言われている。
一説には、本社を中心にして、
東にある宗形神社が鬼門を、西南の大御霊神社が裏鬼門を護るとも。
大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師 吉田初三郎の 「尾張大國霊神社境域改修及御造営計画鳥瞰図」 |
尾張大国霊神社
国府宮
御祭神は尾張大国霊神であって、尾張大国霊神社という御社名が、神社の本質を素直に現しています。大昔、此の地方が伊勢湾の水底から干上って、只今も群名として遺っている様に、中の島の如く陸地が出来ました時、此処へ我々の祖先が移住して来て居を構え、生活を始めましたが、その日その日を生きて行く糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神と敬い、尾張大国霊神と崇め名附けて、日常生活の守護と感謝の心の拠り所として祀ったのであります。即ち、数千年前に尾張地方人と共に創った、尾張地方人の生活に直結している神社であって、まことに尾張人の心の故郷であり、尾張国の総鎮守に外なりませぬ。ところが大国主命の別名を大国玉神とも申しますので、後世になって大国主命を祀る神社であると広く信仰されましたが、昭和十五年国幣小社に列格の時、本来の真面目に還して、尾張大国霊神を祀ると改められました。今日、農商業守護の神、厄除けの神と広く信仰されていますのも、そうした有難い由緒からであります。別宮として大歳神の御子を祀る大御霊神社と、田心姫の命を祀る宗像神社(昔は角玉大明神ともいい、又、文徳実録にはオガミの神とある)とが御鎮座になっていますが、御本社と併せて昔から国府宮三社と申して居ります。即ち、国土の神、五穀の神、水の神という三社による構想であって、これをひそかに拝察する時、尾張総鎮守として創祀した遠い遠い我々の祖先の、遥かなる代の日常生活が偲ばれるではありますまいか。その他、末社として稲荷神社をはじめ司宮神社、神明社、居森社、白山社、三女神社が鎮座になって居ります。 磐境(いわくら、又、いわさか)といい、七個の大きい石が立並んで、神聖視されて居る一廓が御本殿に接して厳存しています。これは今日の様に社殿を建てて祭をする以前の、最も古い、原始的な祭場で、所謂、尾張大国霊神を祀っていた遺跡であり、当神社が数千年以前の太古、既に創祀されていたことを物語っています。 国府宮とは今から少なくとも千三百余年前、既で此処に国衙が置れていて、尾張国司が来任して尾張の国政を執っていました。この国府に在る宮の意から国府宮とか府中宮などというに至ったのであります。 総社というのは、一宮、二宮等と同様に、制度上一種の社格に類するものであって、一国中の神社を国衙附近に総合併祀して、国司が自ら祭祀をする神社をいうのでありますが、尾張国としてはその根源である尾張大国霊神を祀る社柄であり、古くからの名社、且は、国衙に隣接して御鎮座である処から、当神社を尾張国総社と定めて、手篤くお祭りしたのであります。 神階は、光仁天皇の宝亀二年二月の(約1190年前)従四位下に始り、順次昇叙されて土御門天皇の建仁元年二月(約760年前)には正一位に進まれました。 別宮の大御霊神社が従一位に、宗像神社が従二位に叙せられましたのは、文治二年三月(約770年前)のことであります。 社格も、文徳天皇の仁寿三年六月(約1100年前)に御本社はじめ二別宮が共に官社に列せられ、延喜式(約1060年前)には三社共に小社に列して祈年祭の国幣に預られ、崇徳天皇の永治元年(約820年前)には大社に列せられました。明治維新後は、明治六年に郷社、同九年県社に、昭和十五年十一月一日国幣小社に列格になりました。 崇敬は又格別であって、古く崇神天皇七年(約1870年前)に神地を定めて封戸を賜り、天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称して明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。爾来朝廷は勿論、武家では源頼朝をはじめ各時代の将軍から、下は庶民に至るまで篤く崇敬し、報賽寄進の実例は枚挙に暇がありませぬ。特に織田信長は永禄七年社殿を修理し、豊臣秀吉は文禄四年に百五石の地を、又、尾張藩祖徳川義直は元和七年百五十石の地を寄進したが、以後、代々の藩主はこれを安堵し、御社殿の御造営等を援助して明治維新に至ったのであります。 社殿は尾張地方特有の構造様式をもった所謂、尾張式といわれるもので、御本殿、渡殿、祭文殿、東西の廻廊、拝殿、楼門と建並んでいます。殊に楼門は足利初期(約550年前)に建てられ、正保三年(310年前)に解体大修理を加えましたが、その際、上層を全く改造したので珍しく両期の手法様式を備えて居りますし、又、拝殿は徳川初期(約350年前)に建った切妻造で内に柱が並立する稀有な建物(舞楽を奏した名残か)である処から両者共に昭和三十年重要文化財に指定されました。 神職には古くから尾張族の遠祖、天背男命の子孫が代々奉仕して来ました。後に久田氏を名乗りましたが、暦応二年(約620年前)に久田弥四郎崇政が夜討ちに遭い、伝来の古記録宝器等皆な散逸したといいます。その子元政が神主となって世襲しますが、永正年間(約450年前)に久田氏を改めて野々部氏と称し、累代正神主として社家を統率しました。その下に権神主蜂須賀氏、中臈として広瀬氏、川口氏、水野氏、野々部氏、近藤氏、大津氏、加藤氏、服部氏の八家や、神子座、神楽座等十四家が、夫々所役をもって奉仕し、幕末に至りました。 社僧には真言宗の威徳院があり、その下に大日坊があって、当神社の本地は大日如来であるとして来ましたが、明治維新となって、稲沢市長野にある万徳寺へ仏像等を移しますと共に、還俗して岩田氏となりました。 境内は稲沢市国府宮の中心となし、総坪数八千二百余坪あり木々も繁茂した真に神々しい神奈備の社をなしていますが、殊に参道は昔から国道美濃街道に1ノ鳥居を建て大江川を横断して楼門まで延々四百六拾余間、真によく総社の威厳を如実に示しています。 梅酒盛神事(うめさかもり神事)は又、神代(かみしろ)神事、かたしろ神事ともいいますが、一般には「馬まつり」として知られ、五月六日午後に行われます。これは当神社が此処へ御鎮座になった時の姿を現している神事であって、十歳前後の男の子に直衣を着せ、えびらを背わせ、太刀を佩かせて神代となし、宮司以下神職伶人等と共に庁舎に入ります。ここで尾張大国霊神、大御霊神、宗形神を招神して鯔の刺身や青梅の実を供え、国家安穏五穀豊饒を祈願します。ついで御幣持ちを先頭に、神代と神職は馬に乗り、巫女や弓矢太刀等の神宝持ちが行列を組み、楼門前から南へ進んで、大御霊神社を通り、西参道の石鳥居を経て楼門前に着き、悪魔祓いの鳴弦の儀をすませて庁舎へ帰るのであります。この時六十余頭の飾馬を献じます旧慣は、寛永三年(約330年前)日照りが続いたので、近隣の農民が雨乞ひをして馬をひいたのに始るといいます。猶、例祭がこの日の午前中に行われます。 儺追神事は毎年旧正月十三日に行われ、一般には「はだか祭」として知られています。昔、神護景雲元年(約1200年前)称徳天皇の勅命によって悪疫退散の祈祷が各国で行われました。その時、尾張国司が総社である当神社に於いても厳修しましたが、これが儺追神事となって伝ったといい古い伝統をもった、いかにも総社らしい神事だといえましょう。現在では、旧正月二日に祈祷と神籤によって志願者の中から唯一人儺負人(なおいにん)「一般には神男、神僕という」を決め、又、楼門前と二ノ鳥居の傍に標柱を建てます。この日に、此処で儺追神事が行われる事を標示するのです。 同十一日早朝、土餅といって、神灰を包み込み、外も真黒に灰をぬった餅を宮司自らがつき、神前に飾って置きます。これはあらゆる罪穢をつき込んだものと信仰し、夜儺追神事に儺負人に背負せて追放する神聖な餅であります。同時に宮司は神前於いて一宮真清田神社、二宮大県神社、三宮熱田神宮、総社尾張大国霊神社の御神名を認めて秘符をつくり、神殿に納めます。一方、儺負人は今日から儺追殿に入って参籠するのです。 同十二日夜七時から庁舎(ちょうや・当神社の東南に接した境外にある)に於いて庁舎神事が即ち、宮司が司宮神を奉して庁舎に移り、燈明のまたたく中に一宮、二宮、三宮、総社の各大神様を招神して国家安穏五穀豊饒を祈ります。所謂、前夜祭とでもいうものでありましょう。この日午後には、当祭典に奉献されます数十俵どりという大鏡餅が、威勢よく釣込まれて、拝殿の中央に飾付けられますのも名物の一つ。 同十三日は早朝から厄除けの祈祷者が列をなして社頭につめかけ、厄除けの護符の「なおいぎれ」やお守を受ける人で雑踏します。「なおいぎれ」とは、神男が厄を一身に引受けるのだと信じて、自ら裂いて祈祷をこめた信仰的な布ぎれであって、神社に於いてのみ授与しています。午後ともなれば裸男が群をなして威勢よく「なおい笹」を捧げて、拝殿へ駆け込みます。これは裸になれない老若男女が、氏名年齢等を書いて祈念を籠めた布を結付けました青竹で、裸男が身代りとしてかつぎ込み、厄除を祈願してやるのです。境内は何万という裸男と数十万の拝観者とで埋めつくされます。午後三時には御本殿に於いて儺追の祭典が行われてから、神男は御鉄鉾を拝んで、儺負取場附近の裸男の群の中へ飛出します。御鉄鉾は御節刀のなまりであって、勅命を戴く時賜る節刀をかたどった木刀と、御神宝の大鳴鈴(おおなるすず)と、四社の御神名を認めた秘符とを結付けた大榊であって、この神事が勅命によって始められたということを物語るものであると同時に、この神事の神籬とも見るべきものであり、神男が裸群中にいる間、神職が拝殿で打振っています。何万という裸男は、この神男に触れて厄を托し、厄を落そうと神男に突進します。信仰を一途にもみ合いへし合い、全く肉塊の乱闘です。白龍の様にぶっかける水は、直ちに湯煙となって立ちのぼります。歓声は四方に響動し、壮絶そのものです。人垣をつくった観衆は、唯一心に見入っています。こちらに押付けられ、あちらに押返され、やがて楼門をくぐりここをせんどともみ合う中、神男が儺追殿へ納まれば、裸男は潮の引いた様に四散して、夕の帳と共に再び静寂境にかえります。 翌十四日午前三時には、庁舎に於いて夜儺追神事が行われます。浄闇の庁舎にはほのぼのとかがりが燃えて、昼間揉み苦茶にされた神男が白衣で参列します。一の宮以下四社の大神を神籬に招神して、天下の悪鬼退散を祈願した後、人形と紙燭に火をつけて突き立てた土餅が、しめ縄で神男に背負わされます。神男は警固の者に引立てられて、神職の打振る大鳴鈴に追われながら庁舎の周囲を三回廻る頃、神職以下参拝者から礫(つぶて)をなげつけられて、境外へ追出されて行きます。礫とは一寸ばかりの桃と柳の枝を麻でしばり白紙に包んだもので、桃は古くから悪鬼を祓うという信仰があり、伊弉諾尊が黄泉国の醜女を追祓われたという神話を、今そのまま実行している訳です。さて、神男は途中で土餅を捨てて、後をも見ずに帰宅します。土餅を捨てて始めて神男から自由な人間に還った訳です。土餅は直ちに神職の手で土中へ埋められます。土から生じた罪穢悪鬼を土へ還し、国土平穏に帰したと信ずるのです。昔からこの神男をつとめることと土餅を土中へ埋めることとが、この神事中最も神聖視され、重要視されていました。 同日朝から大鏡餅を献納地区へ撤下すると共に、参拝者に頒授します。この餅を戴けば、夏病みしないと深く信仰されていまして、希望者が社頭に充満します。 さて、明治維新前までは今日のと多少相違がありまして、正月十三日早朝、社伝の御神影を拝した中臈の八社家等が大勢のお伴をつれ、御鉄鉾を押立て、刀鎗を抜き放ちながら、その年の恵方に当る、神社を中心として一里以外(一里以内を神垣などといった)の地方へ行って、通行人や戸外に居る男を、誰彼の差別なく、一人捕えて神男としました。唯、女、子供、乞食、僧侶は除外されていました。捕えて神社に送り込む人等を寄進人といい、捕えた神男を無理無体に神社へ引立てて儺追堂へ納めたのでありましたが、公許の祭典なるが故に、時に悲劇もあったと伝えます。 又、当日は藩主徳川家から代参が立ち、熱田からは宮福太夫が来て、翁を一曲舞い納めてから夜儺追神事となりましたが神男は一里以外の地方へ追出され、暁頃に、土餅を捨てて自らの赴く所へとぼとぼと立去ったといいます。 鍬形祭(くわがたまつり)も亦特殊な祭で、旧正月七日に行われます。これには一尺二寸位の割竹で作った鍬形、長さ八寸、径二寸五分位の青竹で作った白亥(しろきい)と白鶏(しろきかけ)とを神前に供えて五穀豊穣をお祈りした後、廻廊を出た斎庭の東側へ白亥、西側へ白鶏と夫々唱えながら是を投げ捨ててついで同様東西へ御洗米を散じます。即ち、当神社に古く伝る特異な祈年祭であります。 的射祭(おまとう)又は月代(つきしろ)神事というのが、旧正月十七日夕七時から庁舎に於いて行われ悪魔退散を祈ります。その時、南の庭を南山といって、山、谷、星、という的を設け、桑の弓にうつきの矢をつがえて射ます。この弓矢は魔除けの護符として参拝者が奪取って行きますが、猶神饌には蛤、繭方の白と黄の団子、大根なます等をお供えするのも産業の守護神らしく、まことに珍しい祭といえましょう。 総まいりは七月初旬、田植を終った小牧、春日井、丹羽等の地方の人々が、部落毎に一団となって豊年祈願に参拝します。 参拝しないと不作だと信仰せられ、連日雑踏し、一週間位にぎやかな日が続きます。 厄除輪くぐりは七月三十一日に七夕祭と併せて行われますが、参道に立連ねた七夕竹が夕風になびく間を、疫病除けに参拝する浴衣着の人々が行交い夏姿として実に麗しい情景を現出します。 秋の大祭が国幣小社に列格の記念日である十一月一日に行われます。この当日この一年間に生れた子供の息災多幸を祈願する御寿々祭もございます。 宝物類としては嘉禄元年八月(約七四〇年前)並びに暦仁元年十二月(約七三〇年前)付の尾張国司庁宣や、尾張藩主歴代の黒印状等、古文書古記録類百数十点はじめ、昔、儺追神事の早朝、社家が拝んで儺負人を捕えに出たという櫛稲田姫画像等二十余点の書画類、儺追神事の御鉄鉾に着ける大鳴鈴、又、登録状のある獅子頭や陶製狛犬等二百余点の宝器刀剣武具類を蔵して居ります。 尾張国衙があった所は、名鉄線路を西へ隔てた松下村だといわれ、弘文天皇元年(約一二九〇年前)に尾張国司守小子部連鋤釣(ちいさこべのむらじさひち)の名が日本書記に見えます。尾張国司の名が史上に出るこれが最初ではありますが、成務天皇五年(約一八四〇年前)に国県の制が定められたと説かれますので、その頃から己にあったかとも思われます。文明九年(約四九〇年前)尾張の領主斯波義廉が、清洲へ帰りましてからは(清洲城を初めて築いたのは斯波義重)、国政は清洲で執られまして、今まで政治経済文化の中心地であった当地も、全く荒廃に帰するに至りました。国司として此処へ来ました大江匡衡が、その妻赤染衛門と共に開設した尾張国学校院も、今は国府宮駅の北隣にその遺跡を留めるに過ぎませぬ。この附近は田畑等何処を歩いても、千数百年前からの土器の破片が散乱していますが、これは国衙所在のもとに大繁栄を極めた当時の名残であって、地下一帯には、その大聚落の趾がさびしくも眠っていることでありましょう。 −『平成祭データ』− |