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榊山神社
さかきやまじんじゃ
岐阜県中津川市福岡500
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岐阜県中津川市にある。
中津川駅の北西12Kmほどの福岡に鎮座。
中津川駅から北上し、木曽川を渡って西へ。
257号線に入ってさらに北上し、福岡の町で東へ入ると、
小学校脇の道の奥、突き当たりに当社の社域。
ということで、当社境内は西向き。
参拝は晩秋の十一月。
社前に大きなイチョウの木があり、黄色い葉が鳥居の前に積もっていた。
入口の鳥居の脇には「金幣社榊山神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり参道階段を上るともう一つの鳥居。
鳥居の左右に、舞殿のような建物が二つ。
鳥居の奥は広い境内。参道正面に本社があり、左右に境内社。
境内左手に忠魂社。右手に芭蕉天神社とある。
中央の階段を上ると拝殿があり、拝殿の奥に本殿。
左右に春宮と夏宮の祠がある。
当社の通称は天王様(てんのうさま)。
創祀年代は不詳。『平成祭データ』には養老年中の勧請。
『明治神社誌料』によると、養老二年(718)六月、上苗木村に勧請。
『全国神社名鑑』によると、養老三年(719)上苗木新田栄久が勧請した古社。
苗木城主遠山家は当社を氏神として尊崇し、天文十年(1541)遠山左近が再建。
以降、代々遠山家より再建修復され、慶長十九年九月、現在の地の奉遷されたという。
徳川時代、祇園牛頭天王社と称され、別当老明山雲台寺が維持。
明治初年、神仏分離により榊山神社と改称し、郷社に加列せられた。
当社の祭に「叩き祭り」というものがあり、
参拝者の頭を榊の枝で叩き、息災を願うらしい。
当社の宝物に「吉則」の太刀があり、国の重要文化財。
鎌倉後期から南北朝時代の刀匠、山城国の三条派、吉則の作で、
現在、東京国立博物館に保存されているらしい。
本殿に祀られているのは主祭神、建速須佐之男命。
配神に天照大御神、伊邪那美之命。
右手の夏宮には、大山祇命、木花咲夜比売命、佐田彦命、
少彦名命、大名牟遅命、神皇産霊命、
左手の春宮には、豊受比売命、天児屋根命、天津彦根命、
訶偶槌命、宇迦御魂命、金山彦命が祀られている。
『明治神社誌料』には、春宮・夏宮の他に、秋宮・冬宮の名が記されている。
春宮・夏宮に合祀されたのだろうか、それとも僕が見逃したのだろうか。
拝殿の屋根に木瓜紋の金飾り。
須佐之男命を祀る天王社なので、祇園と同じ木瓜紋が神紋なのだろう。
境内の左手にある芭蕉天神社は、大きな覆屋根の下に三つの祠。
中央が天神社(菅原道眞)だと思う。
『平成祭データ』には境内社として他に稲荷社と洲原社の名がある。
右の祠にキツネの置物があったので稲荷社(豊受大神)だろう。
ということは、左の祠は洲原社(宇迦御魂命)か。
『明治神社誌料』には芭蕉神社の名も記されており、その芭蕉神社なのかもしれないが。
社頭 |
鳥居 | 参道 |
境内。左・忠魂社、中・本社、右・天神社 |
忠魂社 | 天神社 |
拝殿 | 拝殿 |
拝殿から本殿、左に春宮、右に夏宮 |
春宮と本殿 | 本殿と夏宮 |
榊山神社 参拝のしおり 当社創建は養老年中上苗木新田栄久の勧請と伝う。 苗木城主遠山家の尊崇厚く天文十年遠山左近公御再建、 慶長十九年遠山久兵衛友政公御再建、以来代々遠山家より再建修復されしこと棟札記録に存す、 社宝三条住吉則作太刀旧国宝は遠山友録公寄進せらるところなり。 徳川時代祇園牛頭天王社と称え奉り、別当老明山雲台寺が維持に当たり、 明治初年神仏分離により榊山神社と改称奉り、国の宗社として郷社に加列せらる。 昭和二十一年大東亜戦争後神社本庁に所属し、 昭和三十五年氏子の申請により岐阜県神社庁長参向金幣社に指定せらる。 境内地千六百十坪、本殿は明治十三年改築にして昭和十一年拝殿外建物再建今日に至る。 例祭日は、七月二十日なれど、時代の変遷と共に変更止むなきに至り、 平成元年より七月第四日日曜日に斎行することとなり、叩き祭りの古儀、今も伝承せらる。 −『平成祭データ』− |