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津島神社
つしまじんじゃ
愛知県津島市神明町1
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式内社 尾張國海部郡 國玉神社 |
愛知県津島市にある。
津島駅から西へ天王通りを1.5Kmほどの神明町に鎮座。
境内社殿は南向きで、境内南に朱の大鳥居がある。
南から境内に入ると、右手に観光センター。
左手に、居森社などの境内社が並ぶ。
参道を進むと南門。南門をくぐると、蕃塀。
愛知の大きな神社には、この蕃塀が多い。
蕃塀後方に尾張造の社殿がある。
尾張造というのは、本殿は丹塗の流造で、祭文殿・廻廊・拝殿と釣殿が
左右対称に配置されたもの。
境内右手は、東入口で、鳥居と楼門。
左手には摂社・弥五郎殿社。
当社は、社殿を囲むように多くの境内社が並んでいる。
旧国幣小社で、東海地方を中心に
全国に3000社あるという津島神社の総本社。
津島牛頭天王社と称した神社で、
社伝によると、
祭神・建速須佐之男命が、欽明天皇元年(540)、
対馬より当地へ来臨したため、津島と称するという。
弘仁元年(810)、勅により日本惣社の号を、
一条天皇正暦年中、天王社の号を賜った。
式内・国玉神社の論社とする説がある。
対馬から来た素盞嗚尊を祀る国玉神社ならば、
その元社は、対馬の島大國魂神社あたりだろうか。
また、一説には、境内南に東面する居森社が国玉神社の旧地で、
本来、国玉神社は大己貴命一座を祀っていたが、
後に少彦名命・素盞嗚尊を配祀して三座となった。
居森社の左右に小社が2つ並ぶのは、その名残。
南門内左手にある弥五郎殿社が、その後身で、
正平元年(1346)武内宿禰公末裔・堀田弥五郎正泰によって造替られたため、
国玉の社名が消え、弥五郎殿社となったという。
堀田弥五郎は、楠正成に従い、四條畷に於いて戦死した南朝の武将。
南参道の鳥居 |
手水舎と南門 | 南門奥に蕃塀 |
東参道の楼門 | 境内から楼門 |
境内 |
拝殿 | 拝殿・楼門・東参道鳥居 |
本殿 | 本殿 |
津島神社のしるべ
御神徳 当神社の御祭神、建速須佐之男大神は、天照大神の御弟神、又御相殿の大穴牟遅大神は建速須佐之男大神の御愛婿で、日本の黎明期(れいめいき)にあたり出雲の地にお住い遊ばされ、親子二代にわたって国土の経営、産業の開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起る災厄と疫病(はやりやまい)とを除き給う御徳と授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。この尊いご神徳については、極めて意義深い蘇民将来(そみんしょうらい)伝説があります。即ちその昔須佐之男大神か諸国ご巡行の道すがら、非常にご難渋の折柄を蘇民将来(そみんしょうらい)と云う貧しい民が、温くおねぎらい申上げた事をお喜びになり、礼心として悪疫防禦のまじないを授けられました。即ち「後々疫気あれば汝蘇民将来の子孫なりと云って茅輪(ちのわ)‐葭で作った輪‐を腰につけよ必ず疫神のたゝりを免れしめん」との有難い教えを受けたのであります。茲に津島のお社を、疫病除の守護神と仰ぐについて面白い一例を挙げますと、徳川時代関東地方に悪疫が流行の際はお上に乞うて「普天(ふてん)の下卒土(もとそつと)の浜(ひん)王土にあらざるなし汝疫神速かに立去るべし若し去らざるに於いては津島牛頭天王に奏して刑罰せしむべきもの也何村疫神共え」との差紙を得て、之を村の入口等へ貼ることが行はれたのであります。こゝに当神社では、こうしたご神徳を仰いで年中に疫病厄除けのお祭りを数々執り行いますが、その中でもっとも重要且つ大規模なお祭りは夏の津島川祭であります。 由緒 津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し、今日なお一般に「津島のお天王さま」と尊称されております。社伝によれば当社は欽明天皇元年(西紀540)のご鎮座で、弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正暦年中、天王社の号を賜はったと伝え、いはゆる諸国の天王社の本社で、全国に約三千のご分霊社があります。御鎮座以来歴代の武門、貴賤から篤く尊信されましたが、殊に戦国時代津島に隣接の勝幡城の出身である織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉を初め豊臣一門は信長に引つゞき、社領を寄進し造営を援ける等尊信しました。現在の楼門(重要文化財)は天正19年(西紀1591)の創建で秀吉の寄進と伝えられ、南門(県文化財)は慶長三年(西紀1598)秀吉の病気平癒を祈願して秀頼の寄進になったものであります。又現在のご本殿は慶長10年(西紀1605)清州城主松平忠吉(家康四男)の病弱を憂えた妻女政子の方より寄進になった建物で、桃山式建築の優秀なものとして、重要文化財に指定されて居ります。正保4年(西紀1647)尾張藩主徳川義直は、社領として津島の地千二百九十三石余を寄進し、後に将軍家綱の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。幕末光格天皇以降朝延内々のお沙汰を以って、しばしば歴代主上、親王様方のご祈祷を仰付けられ、又有栖川宮家の御祈願所をも仰付けられました。明治6年県社に、大正15年国幣小社に列せられましたが、終戦後この制度は廃止され現在に及んでおります。津島天王祭 川祭は津島祭、天王祭、提灯祭、船祭等と色々に呼ばれ、当神社年中の祭儀の中で、もっとも厳重なお祭であり我国夏祭の代表的な盛儀で、当夜の盛観を拝覧のため遠近各地から参詣の人等は凡そ十数万を数え、祭場の天王川周辺は立錐の余地もない有様であります。この祭は大神のご神徳を仰いで、疫病、厄難の消除を祈るお祭で、いはゆる枉事をする疫神を祭って疫神の心を和らげ、疫神を送ると伝う祭儀で大神のお諭しのまゝに葭を「祓つ物」として執り行う、神秘な「大御饌調進の儀」と「神葭放流」を中心として十数回に亘って行う、一連の神葭神事の厳儀と併行して、有名な船祭の一連の祭事が執り行はれるもので、有名な京都八坂神社の祇園祭と同様の趣旨で、数百年前既にこのお祭を執り行った記録があります。祭日は古くから旧暦6月朔日に始まり、8月晦日に終る定めでしたが、今は新暦の7月第4土曜日の夜の提灯祭と、翌朝行う朝祭を中心に、その15日前に始まり75日後に終る事に改められました。宵祭(提灯祭) 昔の津島五ヶ村から一艘ずつ奉仕した歴史のまゝに、五艘の卷藁船は数百つづの提灯を点け、昼をあざむく燈火を川面に映して津島楽を奏しながらゆうゆうと天王川をお旅所まで漕渡し、お旅所の神輿の大前に参拝する行事で、古来豪華な燈火の祭典として名を知られております。朝祭(車楽祭)宵祭が終わるとその夜のうちに飾り替えをした津島五艘の祭船の他に、市江船(旧市江村より奉仕)一艘を加えた六艘の祭船は、宵祭とは全然趣を変え、船に積んだ屋形の上段え更に小屋台橋掛りを組み、唐破風等の屋根を載せて、能人形を飾り、中段には豪華な小袖幕を張り巡らし、下段は緋ラシャに金糸で社紋を縫取した屋台幕、錦繍目ばゆい柱巻、紅白梅花の作り花等で飾立て、悠揚迫らず古楽を奏でながら漕渡す有様は、将に王朝頃の絵巻物を見るようであります。 −『平成祭データ』− |
楼門横に境内社の案内があったので転記しておく。
(金色が摂社、銀色が末社)
居森社は摂社だと思うのだが、その案内では末社になっていた。
境外社には、市神社(大市比賣命 大歳神 宇迦之御魂神)、
山祇社(大山津見命)、大土社(大土御祖神)、
八剱社(須佐之男命荒御魂)、堤下社(須佐之男命奇御魂)などがある。
社名 | 祭神 | |
摂社 | 弥五郎殿社 | 大穴牟遅命・武内宿禰命 |
末社 | 戸隠社 | 手力雄命 |
末社 | 忍穂耳社 | 正哉吾勝々速日天忍穂耳命 |
末社 | 龍田社 | 支那津比古命 |
末社 | 庭津日社 | 庭津日神 |
末社 | 久斯社 | 少名毘古那神 |
末社 | 熊野社 | 伊邪那美命 |
末社 | 塵社 | 聖神 |
末社 | 多賀社 | 伊邪那岐命 |
末社 | 稲利社 | 宇迦之御魂神 |
摂社 | 八柱社 | 五男三女御子神 |
末社 | 稲田社 | 櫛名田比売命 |
末社 | 大国玉社 | 宇都志国玉命 |
末社 | 若宮社 | 尹良親王 |
摂社 | 荒御魂社 | 建速須佐之男命荒御魂 |
末社 | 大屋津姫社 | 大屋津比売命 |
末社 | 滝之社 | 弥豆麻岐神 |
末社 | 秋津比咩社 | 速秋津比売命 |
末社 | 橋守社 | 猿田彦命 |
末社 | 愛宕社 | 迦具土神 |
摂社 | 柏樹社 | 建速須佐之男命奇御魂 |
摂社 | 和魂社 | 建速須佐之男命和御魂 |
末社 | 大歳社 | 大年神 |
末社 | 熱田社 | 倭建命 |
末社 | 米之社 | 宇迦之御魂神 |
末社 | 児之社 | 若年神 |
末社 | 大社 | 大山咋命 |
末社 | 外宮 | 豊宇気比売命 |
末社 | 船付社 | 庭高津日神 |
末社 | 多度社 | 羽山戸神 |
末社 | 内宮 | 天照大神 |
末社 | 照魂社 | 護国の英霊 |
末社 | 菅原社 | 菅原道真公 |
末社 | 疹社 | 建速須佐之男命和御魂 |
摂社 | 居森社 | 建速須佐之男命幸御魂 |
末社 | 大日孁社 | 大日孁貴命 |
数が多いので摂社のみ掲載しておく。
居森社 | 居森社拝殿 |
居森社、左右に大日孁社・疹社 |
弥五郎殿社拝殿 | 八柱社拝殿 |
弥五郎殿社 | 八柱社 |
柏樹社 | 左端が和魂社 |
荒御魂社、大屋津姫社、滝之社 |