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多度大社
たどたいしゃ
三重県桑名市多度町多度1681
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式内社 伊勢國桑名郡 多度神社 名神大 |
三重県桑名市にある。
近鉄養老線多度駅の西1Kmほどの場所に南向きに鎮座。
多度山(403m)の南麓に境内がある。
自宅の長野を深夜に出発して、高速を飛ばし、
東名阪道の桑名東I.C.から258号線へ。
しばらく北上すると多度山が見えてくる。
258号線から26号線へ左折するポイントで、
26号線にある大鳥居がライトアップされているのを発見。
脇道に入り、大鳥居と多度山を撮影。
写真では明るく見えるが、まだまだ日の出前の暗さだった。
大鳥居と多度山、肉眼ではもっと暗く、ほとんど夜だった。 |
ライトアップされた大鳥居 |
境内に到着した頃から、じょじょに周囲が明るくなってきたので、
待ちきれずに参拝を開始。
夜が明ける匂いと、その瞬間に境内にいるという実感。
そういう感覚が癖になっているようで、
神社参拝の日は、とんでもなく早起きしてしまう。
境内入口に鉾立社(天久之比乃命)の祠がある。
大きな階段の上に鳥居。
階段の左手に土の坂、「上げ坂」がある。
「上げ坂」は、当社の例祭に行われる「上げ馬神事」が行われる坂。
南北朝の頃から続けられているという。
参道中央に鉾立社 | 境内入口 |
参道階段 |
上げ坂 | 上から |
上げ坂の上に、藤波社(建速須佐之男命 少名毘古那命 大穴牟遲命)と神馬舎。
参拝開始時には気づかなかったが、
参拝を終えた頃、神馬舎の中に白馬が居た。
こちらにお尻を向けて、なにやら食べている様子。
写真を数枚撮っていると、馬の世話をしている方が、
中に入れてくれたので、正面から撮影。
ちょっと汚れているが、美しい姿が撮れて良かった。
多度山に住む神に人々の願いを伝えるのが白馬だと云われ、
当社には1500年前から白馬がいるらしい。
階段上に新宮社 | 左手に雨宮八幡社 |
藤波社と神馬舎 | 白馬の朝食 |
参道階段を上った境内中央に新宮社(天津彦根命幸魂 天目一箇命幸魂)。
境内右手、参集殿の後ろに一拳社(一言主命)。
新宮社の後方に、大きな神楽殿があり、
神楽殿の左手には本宮につづく道と鳥居がある。
境内の左手、手水舎の横に雨宮八幡社(天之水分神 國之水分神 品陀和氣命)。
鳥居をくぐって、まだ暗い参道を歩くと、左手に筆塚。
筆塚のあたりで、階段を上ると、正面に冠木鳥居(最後の鳥居)。
冠木鳥居のそばに白馬舎。
冠木鳥居の左に皇子社があるが、祭神は五男三女神のうち、
本宮・天津彦根命と美御前社・市杵嶋比賣命以外の神々。
つまり、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命・天之菩卑能命・活津彦根命・
熊野久須毘命・多紀理比賣命・多岐都比賣命。
冠木鳥居をくぐると、左手に招魂社。
さらに進んで階段をのぼると正面に神門・於葺門。
於葺門の前に美御前社(市杵嶋比賣命)。
美御前社は婦人のための神社のようだが、
なぜか、穴の開いた石が奉納されている。
於葺門の扁額には、『多度両宮』と書かれている。
当社は、本宮と別宮の二社構成になっているようで、
伊勢神宮と同じ様式なのかもしれない。
神楽殿、左に本殿への鳥居 |
本殿への参道鳥居 | 参道 |
参道、奥に冠木鳥居、右手に神馬舎 |
冠木鳥居 | 参道、左手に招魂社、奥に於葺門 |
美御前社 | 於葺門 |
皇子社 | 神明社 |
神橋と境内 |
於葺門をくぐると小さな神明社(天照大御神)があり、
その先に神橋がある。
神橋の下を流れる川の上流部は、
ちょっとした滝になっており、水音が絶えない。
神橋を渡ると、二つの社殿が対峙している。
向って左にある社殿が、天津彦根命を祀る本宮。
右には、天目一箇命を祀る別宮、別名を一目連神社。
両宮の中央部の奥に、注連縄が張られた岩穴がある。
境内に到着した頃には、周囲が少し明るくなっていたが、
両宮のある場所では、木々が茂っており、かなり暗い状態。
試しに数枚撮影してみたが、ブレブレの写真しか撮れない。
ストロボを使用しても光が届かず。
仕方がないので、もっと明るくなるまで、
両宮の間に座って、ボーっとした時間を過ごすことにする。
夜の神社は、ちょっと怖いのだが、
同じ暗さでも、明け方の神社は気持ちが良い。
いずれ明けていくはずの、約束された未来への変化や過程を、
五感すべてで感じることが出来るからだろうか。
創建は雄略天皇の御代。
当社は、古代、桑名郡一帯を支配した豪族・桑名首が
その開祖・天津彦根命を祀ったもの。
天津彦根命は天照大神の第三子であり、
北伊勢地方の文化の発展、産業の興隆に尽力したという。
よって、伊勢神宮に対して、北伊勢大神宮とも尊称され、
「伊勢にまいらば多度をもかけよ お多度まいらにゃ片まいり」
と謡われたほどの大社であったという。
当社は、多度大社と通称されているが、
本宮を多度神社、別宮を一目連神社、さらに美御前社の
三社の総称が多度大社であるという。
別宮・一目連神社の祭神・天目一箇命は、天津彦根命の御子神。
父神をたすけ北伊勢地方の開拓に尽力するとともに、
我国金属工業の祖神として崇敬され、
天変地異に際し、龍神となって昇天し、人々を救うという信仰があり、
古来神殿には扉を設けていないという。
戦国時代、織田信長の兵火にかかり、
一時、荒廃した時期もあったが、
江戸時代になって、桑名城主本多忠勝の崇敬を受け復興し、
現在に至っている。
しばらくボーっとしていたら、
参拝の方が歩いてくるのがわかったので、
腰を上げて、挨拶し、邪魔にならないように脇へ移動。
あたりも撮影可能な明るさになって来たので、
参道を、撮影しながら戻って、参拝終了。
社務所は、空いていないようなので、御朱印は次回に。
橋の近くの御供石 | 両宮あいだの穴 |
本宮、手前に御供石 | 別宮・一目連神社 |
参道を戻る |
多度神社
◆祭神本宮 多度神社 天津彦根命 別宮 一目連神社 天目一箇命 御祭神の天津彦根命は、天照大御神と速須佐之男尊との御誓約による五男三女の御子神の第三皇子であらせられる。『新撰姓氏録』に「桑名首、天津彦根命の男、天久之比乃命の後なり」とあり、北伊勢地方を支配した豪族が氏神として奉斎した神で国土開拓・産業開発・商工業繁栄の守護神である。 天目一箇命は、天津彦根命の御子神であり、『古語拾遺』により、伊勢忌部氏の祖であることが知られる。天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際にも、刀・斧を作り活躍された神で、金属工業の守護神(製鉄・金作りの神)である。さらに、雨や風を支配され、生きとし生けるものの命のもととなる農業水産を守護し、諸難を滅し、諸願を成就する神で古来神殿には御扉を設けない造りになっている。 ◆由緒 古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。 『延喜式』巻九神名帳の桑名郡十五座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる延喜名神大社である。後一条天皇の御代に、東海道六社の一社にかぞえられ、天皇即位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。 奈良時代末期に、満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字七年(763) に多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺(日本で三番目)を建立した。後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となった。さらに、鎌倉時代の弘長元年(1261)には正一位が授けられ、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬神事が始まったと伝えられる。しかし、元亀二年(1571)に織田信長の兵火にかかり、社殿宝物をはじめ神宮寺も焼失し、一時社頭は荒廃したが、徳川氏が天下を治め平和な世となるとともに、桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により本殿以下の社殿・神事が復興された。桑名藩主が松平家に替わった後も、桑名地方の守護神として厚く崇敬され、社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれ、藩例として毎月正月には藩士が代参する習しであった。また、当代の庶民の伊勢参宮の折りには、北伊勢大神宮とも称される当神社を必ず参拝した事が「お伊勢まいらば、お多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡れていたことからも明らかである。 明治六年に県社、大正四年には国幣大社に列格し、天皇・皇后両陛下よりもたびたび幣饌料が供せられ御神威はいよいよ高くなり、全国より多くの参拝者がある。 −『平成祭データ』− |