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敏太神社
みぬだじんじゃ
三重県松阪市美濃田町950
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式内社 伊勢國壹志郡 敏太神社 |
三重県松阪市にある。
松阪駅の西5Kmほどの美濃田(みのだ)町に鎮座。
59号線を伊勢自動車道松阪I.C方向に西へ進み
インター入口の手前1Kmほどで北上すると、道路に面して東向きに白い鳥居が立っている。
笠木が左右に長い神明鳥居が特徴的だ。
鳥居の右脇に「式内郷社敏太神社」と刻まれた社号標が立っている。
鳥居をくぐると鬱蒼と茂る社叢の中にまっすぐな参道。
参道の左手に神池があり、境内社の祠が一つ。
参道を進むと突き当たりにもう一つの鳥居。
鳥居の後方に割拝殿があり、割拝殿には「敏太神社」「八幡宮」と書かれた2枚の扁額。
割拝殿を通過するとさらに鳥居が立っている。
本殿は境内奥の石組の上。透垣の隙間から中を覗くと、
さらに瑞垣があり、その奥に流造の小振りな本殿がある。
本殿への石段の前に「宝永二乙酉八月」と刻まれた灯籠が立っていた。
(宝永二年=1705年)
他にも古そうな灯籠がいくつかあるが、それらの銘文は確認していない。
『式内社調査報告』によると元禄二年(1689)八月十五日の灯籠もあるらしい。
参拝は三月の雨の朝。参拝時には小雨になっていたが、
ひっそりとした境内に、ときおり響く雨粒の音が心地良い。
当社の社号「敏太」は、資料には「みぬだ」とある。
鎮座地が美濃田(みのだ)なので、
ひょっとすると「みのだ」と呼ばれているのかもしれない。
創祀年代は不詳。
式内社・敏太神社に関して津市の敏太(トシタ)神社に比定する説があるが、
「敏太」の読みに関して、万葉集に「美努女(ミヌメ)の浦」を
「敏馬浦」と表記されている例から「ミヌタ」と読むべきであるとして
当社も式内社・敏太神社の論社となっている。
江戸時代には敏太八幡宮と称しており、通称は八幡さんで、
『美濃田神社旧記』に、建久年中里人が樹の枝に光る木像
(八幡大菩薩及び神功皇后)を得て、社殿を建てこれを祀ったのが始めとあるらしく、
敏太神社に八幡宮を合わせ祀ったということだろうか。
『伊勢式内神社撿録』には「八幡ヲ本社トシテ産神八王子ヲ傍ニ祀レリ」とあるようで、
本来の敏太神社は、産神八王子ということだろう。
中世北畠氏以来関白豊臣秀吉・蒲生氏郷・紀州徳川頼宣らの崇敬が篤く、
明治四十一年二月二十日郷社となり、
大正四年九月十七日、境内社十一社ならびに無格社八雲神社を合祀した。
当社の祭神は『平成祭データ』には、
誉田別尊、神功皇后、住吉神、鹿嶋神、枚岡神、香取神、
比賣神、熱田神、加茂神、建速須佐之男命、市杵嶋姫神、蛭兒神とある。
『三重県神社誌』『式内社調査報告』では、応神天皇を主神とし、建速須佐之男命、蛭兒神、
大日孁貴命、別雷命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、
武甕槌命、熱田大神、市杵島姫命、木花咲耶姫命、不詳一座を合祀したとある。
『明治神社誌料』では、誉田別命、氣長足姫命を祭神とし、
相殿に天照皇大神、住吉大明神、鹿島大明神、春日大明神、熱田大明神、
加茂大明神、蛭兒大明神、市杵島姫大明神、浅間大明神とある。
境内の入口右手(北側)に銅造阿弥陀如来坐像を納めた安養殿がある。
高さ三メートルの「美濃田大仏」とも呼ばれる仏らしいが、
残念ながら、中を覗いていないので確認していない。
この大仏は元文二年(1737)頃、当社の本地仏として、
当社に隣接する真言宗醫王山真楽寺三世住職と美濃田の中川清左衛門が協力して作ったもの。
その製作費用を集めるため、市場庄に小屋を建て、
三年間、参宮街道を行き交う人々から寄付を募ったという。
参拝時に確認できなかったが、『三重県神社誌』によると当社の神紋は「左三巴」。
社頭 |
鳥居 | 社号標 |
参道 | 神池の祠 |
境内参道 |
鳥居 | 割拝殿 |
敏太神社 | 八幡宮 |
境内 |
本殿 |
透垣から本殿 | 本殿 |
宝永の灯籠 | 大仏を納めた安養殿 |