[HOME] > [神社記憶] > [東海地方] > |
|
山住神社
やまずみじんじゃ
静岡県浜松市天竜区水窪町山住230
|
||
式内社 遠江國周知郡 芽原川内神社 |
静岡県浜松市水窪町にある。
水窪駅から東へ5Kmほど登った、山住山(1100m)の山頂に鎮座。
当社からスーパー林道をまっすぐに南下すると秋葉神社へ到達する。
林道そばにある鳥居から境内に入ると、正面には大杉二本。
周囲の森にも、立派な杉が多く、見事。
江戸時代、山住大膳亮が36万本の木々を植林したという。
大杉の奥に、なぜか横向きの社殿が鎮座。
本殿は社殿後方の斜面にある。
和銅2年(709)伊予の大山祇神(おおやまづみのかみ)を勧請して
山住(やまずみ)大権現と称した。
当初は、勝坂、あるいは門桁、あるいは宮川に創建された後、
現在地に遷座したという。
徳川家康が武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、
山全体が鳴動し、ウォーウォーという山犬の大音声がおこり、
武田勢を退散させた。
以来、徳川家康の崇敬を受けたという。
そのためだろうか、当社の神紋は葵の紋だ。
徳川家康を助けた山犬の声でも明白だが、
当社は、山犬(狼)信仰の神社。
当社の神札には、山犬様が描かれている。
山犬(狼)は、農作物を荒らす猪や鹿を退治する益獣であり、
焼畑の作物の守り神。
奥三河一帯には、山住神社の山犬信仰が浸透しているという。
昭和27年の佐久間ダム建設の時、
周囲の猪が、いっせいに愛知県東栄町方面へ移動し、
作物に多大な被害を与えた。
この時にも、猪害をさけるため、小字単位で山住の小祠を作って祀ったという。
猪退治の山犬信仰は、その後、悪霊除け、猿除けへと拡大した。
狛犬も山犬 | 鳥居と神門 | 狛犬も山犬 |
境内の大杉二本 |
社殿 | 拝殿 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
境内社 | 境内社 |
静岡県指定天然記念物
山住杉の由来 この付近一帯の杉は元禄九年(一六九六)二月今から およそ三〇〇年前山住家二十三代大膳亮茂辰公 が当時幕府御用材の乱材を憂え、遠く伊勢より 三万本の杉苗を購入し、この地方における造林 の第一歩を印した。以来大膳亮は没年の延享元年 (一七四四)まで四八年間実に三六万本に及ぶ杉檜 の拡大造林を進め、明治、大正期、東京市場での 「山住杉」の名声を残すと同時に、今日における 天龍林業の振興の基礎を築いた。これから由緒ある 杉は山住神社境内外に幾星霜を経た歴史の跡を しのぶことができる。 −境内案内− 山住神社 山住神社は静岡県磐田郡水窪町山住230に鎮座せられ、御祭神は日本総鎮守大山祇命にして、和銅2年元明天皇の御代伊予国越知郡大山祇神社より遷祭し山住大権現と号す。 56代清和天皇の御代貞観2年1月27日遠江国正五位下苅原河内守従四位下を授けられ、同16年2月23日遠江国従四位上を授けられ、勅使を2回下向せられた延喜年中式内社に列せらる。永正10年6月7日103代後柏原天皇の御代奥山郷高根城主大膳守武運長久の祈願にて御造営(高根城跡は水窪町久頭合に有り)。越えて105代正親町天皇の御代元亀3年徳川家康公浜松御在城の時(31歳)三方原の戦い利あらず当神社へ逃げる。敵は家康公を追って当神社に迫るや一天俄にかき曇り辺りは薄暗く日暮れの様相と化し、風腥く霊山全域にてウオーウオー地響きのするうなり声起こり、敵はこの奇声に胆を潰し退散、これを以て家康公安泰に難を逃れる。翌天正元年正月17日(32歳)お礼御参社あり、天正4年宝剣2振、慶長19年宝剣1振奉納せらる。慶安2年8月17日徳川幕府累世御朱印を賜る。114代桜町天皇の御代享保18年3月16日雷火の為本殿幣殿を始め宝蔵に至るまで焼失したため御普請御免のお許しを請んとし、大宮司山住大膳亮禰宜高木三郎太夫を従え、時の将軍吉宗公に直参の際将軍の御意を以て夏6月江戸において臨時祭を斎行すると一天かき曇り寒気甚だしく降雹あり。御感浅からず直ちにご普請差し許されたりと明治5年山住神社と改め、県社に列せらる大神は専ら邪気退散魚漁豊足家内安全商売繁盛お犬様信仰の御霊験あらたかで往時より遠近の信者登山参拝するもの甚だ多い。海抜1100メートルに鎮座、周囲2丈余の御神木(神社庁指定)老杉は天然記念物として県からも昭和46年8月3日指定されている。 −『平成祭データ』− |
【 山住神社 (水窪町) 】