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井伊谷宮
いいのやぐう
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991−1
なげかじな 忍ぶばかりの 思い出は 身の昔にも 有りしものなり
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静岡県浜松市引佐町にある。
旧引佐町役場の南500mほどの井伊谷に鎮座。
小掘遠州の庭で有名な名勝・龍潭寺のすぐ北に境内がある。
参道入口は東向き。
参道の北側に、駐車場があるので車を停めて参拝開始。
参道入口を入ると鳥居が立ち、奥に神門。
神門をくぐると正面に社殿がある。
社殿の前、授与所のそばに、
グルグルと幹が捻じ曲がった木があって面白い。
境内の東側には、「慈母観音石」という石があり、
見ようによっては、子を抱いた観音にも、
聖母マリアにも見える不思議な石。
社殿の後方に神明造の本殿があり、
その後方には、石垣に囲まれた宗良親王の御墓がある。
石垣の中は一般の立入りが禁止されており、
中には西向きの鳥居と垣の中に宝筐院塔があるらしい。
御墓の石垣の高さは2m近くあるようで、
周囲の道を歩いても石垣の中は確認できなかった。
道の西側の土手の上に登ってみたが、
木が茂っていてよく見えなかった。
参拝は11月の休日の朝。
参道や境内では、神職の方が掃除の最中。
創立は、明治五年二月。
祭神は、建武の中興の中心人物・後醍醐天皇の
第四皇子である宗良親王。
建武の中興は、武家中心の社会を、
古代の律令国家へ戻し、天皇中心の社会へ復帰させることが目的。
徳川幕府の武家社会から維新によって、明治政府を樹立した
明治天皇にとっても、この建武の中興は意味深い時代であり、
建武中興に尽力した祭神・宗良親王を、その功によって
本拠地であり、御墓のあるこの地に祀られたのが当社の創始。
ちなみに、建武の中興に関係した、南朝側の皇族・武将は
明治になって、各地に官幣社として祀られている。
『建武中興十五社』を参照。
宗良親王は、南北朝時代、
一品中務郷征東将軍として、この地、井伊谷を本拠とし
五十余年間御活躍になり、
元中二年八月十日、七十三才の時に、この地で薨去せられた。
後、弟宮である奥山方広寺開山無文禅師(円明大師)により
この地に埋葬された方。
当社の神紋は、菊花紋だが、
裏紋として、李花紋、つまり、スモモの花の紋を使用しているらしい。
御祭神・宗良親王は和歌に精通した方で、
歌集『李花集』を遺しており、その歌集の名が、この紋の由来だという。
境内入口 | 参道鳥居 |
参道 | 神門 |
境内 |
本殿 | 本殿 |
社殿 |
慈母観音石 | 社殿前の捻じれた木 | 捻じれてる |
境内 |
境内後方にある宗良親王墓 | 境内の摂社・井伊社 |
旧官幣中社 井伊谷宮
御祭神宗良親王は、後醍醐天皇第四皇子(宮内庁皇統 譜による)であらせられ、一品中務卿征東将軍としてこの地井伊 谷を本拠とし五十余年の間御活躍になられました。 その足跡は遠江、駿河、三河、甲斐、信濃、越後、越中、上野、 美濃等の各地にわたり、信濃宮、上野宮、越中宮と世の 人々から尊崇せられ、僻遠山間の地にあって困難辛苦を克服し て活躍せられましたが、元中二年八月十日御年七十三才を 以てこの地で薨去せられました。 その折奥山方広寺開山無文禅師(御祭神の弟宮)が 導師を奉仕せられ、この地に埋葬され冷湛寺殿と尊称 し奉りました。 親王は特に和歌の道に秀で、その御生涯の殆どを戦陣の中で 過されたにも関らず、家集「李花集」を遺され、準勅選「新 葉和歌集」の編纂など文化の面でも御功績を遺されました。 明治元年明治天皇の勅旨として創立せられ、明治五年 二月十二日御鎮座、同六年六月九日勅裁を以て官幣 中社に列せられました。 祭神御墓 本殿背後にあり域内六百坪は石垣をもって囲み、寛保 第二壬戌歳八月、信州伊那郡阿島の住人知久監物源頼 人奉納の宝筐院塔が建立されている。 摂社 井伊社 御祭神在世中宗良親王、御子尹良親王を輔佐し 忠勤を励んだ地元豪族従四位井伊介道政、正四位 井伊新介高顕二柱が祀られている。 −参道案内板− 井伊谷宮
沿革鎮座地は御祭神御終焉の地で、御墓所が本殿後方に宮内庁陵墓官管理の皇室用地として所在している。明治元年明治天皇野勅旨として創立せられ、御祭神の縁故として彦根藩主井伊掃部頭に手伝を命ぜられ、明治五年二月十二日御鎮座、同六年六月九日勅栽を以て、官幣中社に列せられる。 祭神事歴 御祭神宗良親王は、御醍醐天皇第四皇子(宮内庁皇統譜による)あらせられ今から六百五十余年前、南北朝時代に一品中務郷征東将軍としてこの地井伊谷を本拠として五十余年の間御活躍になり、元中二年八月十日御年七十三才を以てこの地で薨去せられ、弟宮である奥山方広寺開山無文禅師(円明大師)元選王自ら導師となりこの地に埋葬せられ冷湛寺殿と尊崇せられたのであります。親王は幼少の折から御出家せられ、京都妙法院に入られ、天台座主となられ、尊澄法親王と申され、始めて天台宗一品座主となられたのであり、御兄宮、尊雲法親王と共に京都比叡山に入られたのでありますが、尊雲法親王が、大塔宮護良親王(鎌倉宮御祭神)と還俗せられ、勤皇のため奮戦せられたので、その後任として仏道一筋にお仕え申上げましたが、時代の波は親王にも及び、遂に還俗して宗良親王となり、戦陣の中へ身を置かなくてはならなくなったのであります。 然し親王の御生母は権大納言 藤原為世卿の子で為子と申され、和歌に秀でた御方であり、親王は御幼少の頃より和歌の道を教えられましたので、終生和歌の道の聖と仰がれました。どんな苦労流浪の中にあっても和歌を離さず多くの和歌を遺され、準勅選新葉和歌集の編纂を始め、親王の歌集である李歌集など当時の歴史資料としても貴重な和歌をのこされましたことは文化の面での御功績として忘れてはなりません。 唯その御生涯は誠に悲惨な人生であり辛苦困難の極に達し、僻遠山間の地に故郷を偲び戦陣の間に初志を貫き、永雪を冒し雨露を凌ぎ正に道なき途を流浪漂泊の毎夜を遠江駿河三河甲斐信濃越後越中上野美濃大和と巡りながら信濃宮、越中宮、上野宮と今でも世の中の人から尊崇せられていることはその御人柄を偲ぶに余りあります。 「君が代を 絶えせず照らせ 五十鈴川 吾は水屑と 沈み果つとも」の国想う忠義の心は今でも私たちの心を感動させるものがあります。 今の平和な世にあっても、幾多の困難は夫夫の人の心に宿すものであります。 その時親王の御心中を推察し、御遺徳をお偲び申すことにより、新しい勇気が湧き出て来ることと存じます。 −『平成祭データ』[原文ママ]− |