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大口神社
おおくちじんじゃ
三重県伊勢市竹ケ鼻町53−2−2
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三重県伊勢市にある。
伊勢市駅の北東3Kmほどの竹ケ鼻町に鎮座。
勢田川の河口部附近、23号線から北に入った場所に境内がある。
車道に面して、境内入口は南西向き。
鳥居の左手に「大口神社」と刻まれた社号標が立っている。
鳥居をくぐり、参道を左手に曲がると正面に社殿。
拝殿の前にも鳥居が立っており、拝殿の後方に少し離れて瑞垣の中に神明造の本殿がある。
境内は広くは無いが、社殿の周囲や参道には清浄な砂利が敷き詰められ、
緑の苔も程良く生育している雰囲気のある神社。
参道に「山の神」と呼ばれるらしい石が祀られている。
本殿の左手にも同じような石があるが、これも山の神だろうか。
また、本殿の右手に「七本竹」が祀られており、
拝殿の案内によると「安産の神様」として祀られているようで、
竹ケ鼻町自治会へ行けば、七本竹社の御守りも配布されるらしい。
創祀年代は不詳。
「大口」とは、伊勢三川の宮川、五十鈴川、勢田川の合流する地点が
大水戸口を形成するが故に大湊と称し、このあたりを大口村と称したという。
『三重県神社誌』によると、昔、箕曲郷匂村三津社という地に、河原大社、水饗社、河原饗社という
水に関する三社が祀られていたが、明応の大震災により人家田畑が流出。
水饗社を竹ケ鼻に遷して大口神社と改称したという。
明治三十七年の一郷一社制の神社合祀政策により、
明治四十一年四月十七日、小木社の新社殿造営を機に、
馬瀬町鎮座の村社・馬瀬神社、下野町鎮座の村社・日和神社、
竹ケ鼻町鎮座の村社・大口神社(当社)、小木町鎮座の無格社・曽根社を合祀し、
上記四ヶ町の郷名が箕曲郷と称したことから箕曲神社と改称された。
その後、戦後になって各町の氏子達の要望によって分祀独立。
当社・大口神社もも昭和二十年十一月に七本竹社の小祠に合わせ祀った後、
昭和二十六年、社殿を建てて現在の形になった。
『式内社調査報告』によると、式内社・川原大神社の旧地として
竹ケ鼻の南西の畑の中の小祠であった川原社が挙げられている。
これは、大口神社の元社であった水饗社とともに三津社の中の河原大社のことだろうか。
その川原社は明治十一年七月七日に大口神社に合祀されているようだ。
『三重県神社志』によると当社の神紋は「左三巴」とあるが、
本殿の屋根には花菱紋を刻んだ金色の装飾が付けられていたので、両方の紋を載せておく。
鳥居 | 山の神 |
境内 |
鳥居と拝殿 | 本殿 |
本殿と安産の神・七本竹 |
これも山の神か? | 七本竹 |
大口神社 由緒書き 大口とは、伊勢三川の宮川、五十鈴川、瀬田川[※]の合流する地点が大水戸口(おおみなとぐち)を形成するが故に、大湊といい、また上下二字をとって大口と称したものである。 『二宮使解』の元久元年(一二〇四年)十月條に「抑度会郡大湊ノ平湯浜并宮河ノ合流、字ハ子勾埋地壹処、四至ハ限リ2東ハ松原ヲ1南ハ限ル2大口ニ1」とある。 また、大湊の『大田家文書』には、「昔時度会郡箕曲郷大湊の戌亥に勾村あり。 同村の分村にして、長徳三年(九九七)の頃大口村と称し一村たりし、明応七戌午年地震津波のため人家田畑流失して其地を再興の目途之無に據り同村の人民若干諸村へ住居し、その中八戸ばかり人民謀りて氏神水饗社を奉載して同郡勾村字升鼻の洲寄りに住家を構え、一村の姿をなし竹ヶ鼻村と称し、氏神水饗社の称号を換えて旧村名大口神社と唱えたり云々」とあり、竹ヶ鼻村の発祥と大口神社の由緒がうかがえる。 往古、水郷の守り神として勾村字三津社という地に河原大社、水饗社、河原饗社という三社の水に関する神が祀られていたが、明応の大震災により、水饗社を竹ヶ鼻に遷移し、大口神社と改称したというのである。 明治に入ると、神社合祀令により、同四一年四月一七日に村社小木社(現、箕曲神社)に合祀される。 しかし、昭和二〇年十一月には、箕曲神社から分祀され、大口神社として奉斎され今日に至っている。 −『平成祭データ』− |