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神村神社 社地跡
かむらじんじゃ しゃちあと
三重県伊勢市御薗町高向二ツ屋113
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式内社 伊勢國度會郡 雷電神社 |
高向大社の北、23号線へ向う道路脇にある。
碑は道路を背にして立っている。つまり南向き。
「神村」と書いて「かむら」と読む。
当地は、高向郷の一邑であった加村(神村)の地で、
神村社(加牟良神社)が鎮座していた場所。
中世、文安年中には加村は廃絶しており
文明年間には、蕪(かぶ)社とも称されていたという。
貞観三年八月、高向住人の三津正盛が個人的に祀った古社。
宮川から流れて来た白羽の鏑(かぶら)矢を祀ったため
蕪矢大明神と呼ばれたという伝承があるが、
加村(かむら)からの付会だと思う。
ただし、京都山城賀茂別雷神社の丹塗矢の伝承と似ており
当地と鴨との関連も連想させる。
よって、祭神を別雷神とする説があり、式内社・雷電神社の論社となっている。
明治四十一年十月二十一日、高向大社に合祀され
昭和十三年八月、水難災厄の後、神社跡に碑を建立したという。
石碑 |
碑文 |
神村社を奉斎した加村は高向村の枝郷で本村よ
りさらに西北の宮川沿ひに位置し、年代は不明だが度々の
水害によつて早く高向村に移転したと伝へられる、 『高向神社記』に引く「蕪社棟札記」によれば、神村社 の創祀について「貞観三年八月五日大雨降洪水時大野大椙 本ニ白羽蕪根矢白川流留ル。三津正盛此一筋矢見付我屋持 來、其夜大光動、正盛恐テ件矢大椙之邊ニ造社、彼矢神躰 祭號蕪矢大明神也。今加牟良社也」と記す。社料としては 「豊受皇太神宮末社」の宇須野社の「鯛祭田之内一石代米 納」と、同じく槐本社の御供料麥「十三石」の内二石八斗 五升が御供料として充てられてゐる。このことは同じ氏神 であつた高向大社が社人二人に十二石宛社料として給し、 神事修理のため二町の田があつたことと比較すると違いが よく分かる。このような経営がなされてゐたことは『類聚 神祇本源』の外宮別宮編の「長徳三年(九九七)八月田社卅 三前」として「神村社」が記載されてゐること、すなはち 外宮の関連の神社として祭祀が行はれてゐたことを一方で 裏付けてゐると考へられる。 −『式内社調査報告』− |
【 神村神社社地跡 】