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都美恵神社
つみえじんじゃ
三重県伊賀市柘植町2280
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式内社 伊賀國阿拝郡 穴石神社 |
三重県伊賀市にある。
柘植駅の西1Kmほどの柘植小学校の隣り。
道路から北へ参道が延び、山裾に南面して鎮座している。
階段の上いっぱいに拝殿があり、その後方に三棟並んだ社殿。
中央が本殿だが、左右の境内社の詳細はわからなかった。
元は、霊山の中腹穴師谷に鎮座しており、
穴師社、石上明神と呼ばれていた神社。
式内・穴石神社の論社とされているが、
奈良の穴師社や、石上社との関連が指摘されており、
柘植が出雲民族の居住地と思われている。
『伊勢風土記 逸文』に、伊勢の国名の由来として、
「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、
出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。
ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
とある。
当社の神は、伊勢津彦命であり穴師の神、つまり風神ということ、
出雲系の神であることなどから、諏訪神に近い存在かもしれない。
また、ここで争い追い返した、阿倍志彦の神は、敢国の神のことか。
『平成祭データ』には、境内社として、
耶須久迩社、事比羅社、愛宕社、秋葉社、山神社とある。
山神社は、境内右手の石の垣の中にある石碑だろう。
「山神」の石碑の横には、三面六臂の青面金剛の石碑。
伊賀の神社の特徴の一つは、
祭神が、やたらに多いということ。
明治の合祀が、徹底された結果だと思うが、
合祀された後も、忘れられずに祀り続けられているということでもある。
境内の小さな祠に押し込められ、忘れ去られるよりは良い。
境内 | 境内入口の鳥居 | 鳥居と拝殿 |
三棟並んだ社殿 |
御神木横に青面金剛 | 御神木 | 御神木横に山神 |
境内から、元地の霊山が見える |
御由緒
都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか
と思われる。我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族)
がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に「伊
賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、又の名
は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城
を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い
勝たずして還り却りき。因りて名を為しき云々」とあるこ
とからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた
神であることは事実のようだ。この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神 ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永 二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (一六四六)今の地に移されたことは、種々の古文書から明ら かであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌 年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。 この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。 都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二 年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので 倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等 にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの で、即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。 こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く 祀りつぎたいものだと思う。 −境内石碑− 都美恵神社御由緒
当神社の起源は古く、西紀2、3世紀以前と推定されるが、元は霊山中腹の穴師谷に祀られ、「穴石大明神」として崇められていた。しかし、寛永21年(1644)の大洪水によって社地社殿悉く欠潰し、正保3年(1646)現在の地に遷され今日に至っている。明治42年には、合祀によって一村一社の実を挙げ柘植郷の総鎮守となり、大正11年7月に「穴石神社」から伊勢神宮縁りの元社号「都美恵神社」に改められた。昭和63年は、合祀完了の年から数えて80周年にあたった為、これを記念して、諸社殿の修復、境内の整備、社頭石玉垣の建設等の大事業を実施した。 −『平成祭データ』− |