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佐那神社
さなじんじゃ
三重県多気郡多気町仁田156
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式内社 伊勢國多氣郡 佐那神社二座 |
三重県多気町にある。
紀勢本線佐奈駅の東700mほどの仁田に鎮座。
鬱蒼と茂る大きな森が境内で、東隣りに佐奈小学校がある。
当社の社名は佐那神社だが、鎮座地の旧名は佐奈村と書く。
紀勢本線の佐奈駅から東へ線路の北側の道(旧熊野街道)を進み踏切を渡ると当社の境内。
北向きの入口に新しい鳥居が立っており、
鳥居の左脇に「縣社佐那神社」と刻まれた社号標がある。
境内の南側、42号線(熊野街道)にも境内入口があるが、
とりあえず北側入口から境内に入る。
参道を進むと、江戸時代(西暦1850年頃)に植えられたと云う夫婦杉がある。
さらに参道を進み、右手に入る道に手水舎があり奥に社殿。
そのまま直進すると南側入口に出てしまう。
参拝は平成二十六年の三月。式年遷宮を終えた伊勢神宮参拝のおりに立ち寄ってみた。
境内の案内によると、平成二十七年三月に、
当社でも二十年毎の式年遷宮(六回目)が行われるようで、参拝当日は本殿の工事中。
当社の本殿は神明造。周囲に足場が組まれ、数人の大工が作業中だった。
式年遷宮まで、当社の祭神は右隣に並ぶ境内社の和玉神社(地域の物故者を祀る)に遷されていた。
上の写真は、境内にある御神木の手力の大桧。
式年遷宮が近付いているためか、当社付近の町内の掲示板などに
御神木を撮影したポスターが貼られていたので、あやかってみた。
御神木をメインにした当社のポスター |
創祀年代は不詳。主祭神に天手力男命を祀り、
『古事記』の天孫降臨の部分に、邇邇芸命に随伴した神として
「次に手力男神は佐那那県に坐す」と記されているのが当社。
よって古事記編纂の頃(712年)には存在していたと思われ、
式内社・佐那神社に比定されている古社。
延喜式には「佐那神社二座」とあり、天手力男命の他の一座には諸説あるが、
当社では、曙立王(あけたつのみこ)とされている。
曙立王は、開化天皇の曾孫、日子坐王の孫、大俣王の子で、
垂仁天皇の時、皇子誉津別命に従って出雲に至った神。
『古事記』には伊勢の品遅部君・伊勢の佐那造の祖と記されている。
ちなみに他の説は、佐那の名の類似からか若沙那賣神、
天孫降臨で供に随伴した天石窓神、佐那造であった御代宿禰など。
当社は神宮、特に外宮との縁の深い神社で、
江戸時代に神宮の式年遷宮の際の古材の払い下げを受けて
式年遷宮が再興されたらしい。
当社の通称は「中宮さん」。
境内案内には伊勢国多氣郡の二番目に記されているためとあり、
『式内社調査報告』には、神宮造宮使による二十年毎の式年遷宮に預る多氣郡三社、
須麻漏賣神社を一之大宮、当社を中の宮、櫛田社を大社と称していたことによるとある。
また「大森社」とも呼ばれていたらしい。
明治四年七月村社に、明治三十九年十二月二十五日神饌幣帛料供進社に指定され、
明治四十一年一月八日、旧佐奈村地区の三十七社を合祀し、
佐奈神社であった社号を佐那神社と改称。
明治四十四年一月、古例により神宮から古材を受けて式年遷宮を行い、
昭和十八年十月八日、県社に昇格した。
以上のように当社には多くの神社が合祀されており、
天手力男命、曙立王の二柱の他にも多くの神々が祀られている。
境内にあった式年遷宮の案内板には「天手力男命をはじめ二十六柱の神々」とあり、
由緒石碑には「天手力男神を主神とし天宇受売神など二十三柱祭神不詳二座」とあり、
『三重県神社誌』には主神以外に二十三柱の神々の名と不詳三座とある。
上記の御祭神の名は『三重県神社誌』から転載したものだが、
『平成祭データ』には猿田彦命の名も記されている。
『式内社調査報告』によると、当社に合祀されている神社は以下の通り。
西山鎮座の村社八柱神社二社と境内社の八雲神社、
五佐奈鎮座の村社八雲神社と境内社若宮神社、村社八柱神社、
無格社八幡神社、無格社金垣内神社、無格社澤本神社、
四神田鎮座の村社八柱神社と境内社若宮神社、無格社の小社神社と境内社八雲神社、
油夫鎮座の村社八柱神社と境内社四社、
仁田鎮座佐奈神社(当社)の境内社六社、五桂鎮座の無格社箱部神社、
前村鎮座の村社八柱神社、無格社稲荷神社、
神坂鎮座の村社八柱神社と境内社二社、無格社浅間神社、
長谷鎮座の村社熊野三社神社、平谷鎮座の村社須麻漏賣神社と境内社三社、
村社八幡神社、村社久保八雲神社。
この中で、平谷鎮座の村社須麻漏賣神社は式内社・須麻漏賣神社の論社。
旧社地に石標が立ち、祠が祀られている。
また、油夫鎮座の村社八柱神社は式内社・火地神社の論社。
旧社地は畑になり、油夫村に遥拝所が設けられている。
さらに、神坂鎮座の村社八柱神社は式内社・守山神社と式内社・穴師神社の論社。
『三重県神社誌』によると当社の神紋は「左三巴」。
境内にあった式年遷宮の幟にも巴紋が染められていた。
北側参道に夫婦杉が祀られていたが、社殿の前には、御神木・手力の大桧。
また、和玉神社の他に、熊野三社遥拝所、神宮遥拝所があり、
天宇受売命和魂、天宇受売命荒魂を祀った岩や、神名社・大山祇命など。
昔、本殿の下に祀られていたという男根のような「やすらぎの神」があり、
案内板に「優しくなでて心静かにお祈り下さい」とある。
南側社頭 |
北側社頭 |
境内参道 | 拝殿 |
遷宮のための作業中の境内 |
拝殿右に和玉神社 | 和玉神社本殿 |
工事中の本殿 |
御神木・手力の大桧 | 熊野三社遥拝所 |
やすらぎの神 | 神宮遥拝所 |
天宇受売命和魂 | 天宇受売命荒魂 |
神名社・大山祇命 | 夫婦杉 |
御由緒記
当社の御祭神は、上古、天照大御神、岩屋戸
に隠れましし時、其の戸を開いて、大御神の大
御光を六号に輝かし奉った天手力男神を主神と
し、天宇受売神など、二十三柱、祭神不詳二座
をお祀りしている。当社の創立年代は不詳であるが、古事記(七 一二)に「次手力男神者坐佐那縣也」とあり、 延喜式神名帳には「多氣郡五十二座並小二座」と あるなど、千有余年以上を経過している古社で あることは明らかである。 当社の創設者について確証はないが、延喜式 神名帳にいう「佐那神社二座」のうち、一神は 主神の天手力男神、他の一神について諸説はあ るが、当社においては、古事記に従い「曙立王 神」を氏神さまと奉祀している。当社の創設と 深い係りのある神と考えられる。 当社の別名を「中宮」とか「大森社」などと 古くから呼ばれていた。これは、延喜式内社多 氣郡巻頭第二の神社であったことや、佐那谷に 比類なき高大な鬱林が覆い茂っていたことなど、 からである。 当社は、古い文献により、吉野朝以降、室町 時代、江戸時代初期に至るまで神宮、特に外 宮とは深い係りを、次のようにして保有して いた。
同年国事困難に殉じた本村出身二百十二柱の 祖霊を祀る境内社「和玉神社」を創設した。 以上のことから、当社の創立年代は極めて古 く、且つ 尊い所以を知ることができる。 −由緒石碑− |