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畠田神社
はたけだじんじゃ
三重県多気郡明和町中村1029
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式内社 伊勢國多気郡 畠田神社三座 |
三重県明和町にある。
近鉄線斎宮駅の北6Kmほどの中村に鎮座。
23号線中村3交差点から北に入った中村集落の北東隅に境内がある。
境内入口は南東向き。
入口の正面に神宮遥拝所の石が祀られ、
その近くに「式内畠田神社」と刻まれた社号標が北向きに立っている。
数段の階段を上ると鳥居があり、鳥居の奥が境内。
境内社殿の前にも鳥居があり、境内左手に手水舎。
右手には横向きに祖霊社が祀られている。
拝殿は切妻造平入だが左右に突き出して二重になっており、
前面には千鳥破風がせり出したような構造。
後方の垣の中には神明造の本殿がある。
創祀年代は不詳だが、
式内社・畠田神社三座に比定される古社。
『三重県神社誌』によると、
平安時代には当地周辺は藤原と称し、一所に三座並立に祀られていたが、
吉野朝時代に伊勢国司北畠顕能卿が藤原を、南藤原・中藤原・北藤原の三村に分離。
畠田神社三座も三村に分祀されたという。
明治三十九年十二月二十五日、神饌幣帛料供進社に指定され、
明治四十一年四月一日、北藤原の畠田神社に境内社八幡社ほか
中村の畠田神社、南藤原の畠田神社など旧下御絲地区(中村、北藤原、南藤原、川尻、
内座、養川、田屋、志貴、八木戸、濱田、根倉)の二十四社を合祀し、畠田神社と単称。
同年十月十日、中村の畠田神社旧社地に遷座し、現在に至る。
三カ所に分離する前の畠田神社の鎮座地に関しては二説あり、
一つは北藤原の古社地、もう一つは北藤原と中藤原の中間地点。
また、三カ所の中の中藤原に関して、現在の中村となったとする説が一般的だが、
北藤原と南藤原の中間地点に、中村とは別の中藤原があったとする説もあるらしい。
確かに地図を見ると中村は南藤原の西にあり、
北藤原・南藤原の南北の並びからはずれているように感じる。
北藤原の畠田神社に合祀され、現在の中村に遷座した神社の中で
以下の諸社は式内社、あるいは式内論社となっており、
旧鎮座地などに石碑や祠が祀られている。
濱田に鎮座していた御山御前神社は、式内社・守山神社。
養川(旧養田)に鎮座していた石田神社は、式内社・石田神社。
志貴に鎮座していた佐伎栗栖神社は、式内社・佐伎栗栖神社二座。
八木戸に鎮座していた伊呂上神社は、式内社・伊呂上神社。
内座に鎮座していた鎮座は宇気比神社は、式内社・宇留布都神社。
根倉に鎮座していた國之御神社は、式内社・國乃御神社。
同じく根倉に鎮座していた根倉神社は、式内社・櫃倉神社、
あるいは式内社・竹佐々夫江神社、式内社・荻原神社。
当社に神紋に関しては未確認だが、
『三重県神社誌』には「左三巴」と記されている。
社号標 | 神宮遥拝所 |
社頭 |
鳥居 | 境内鳥居 |
拝殿 | 祖霊社 |
社殿と御神木 |
拝殿扁額 | 本殿 |
御由緒
創建は延喜年間(西暦九〇一年〜
九二三年)以前なること明白なるも
詳細は不明明治四十一年十月十日次の旧下御 糸村内の神社が合祀され、火之迦具 土神外二十四柱の祭神を合祀し、氏 神として崇敬され現在に至っている
−境内由緒石碑− |
当社の東200mほどの南藤原の公園内に南藤原鎮座畠田神社の古社地がある。
公園の片隅の垣内に榊が植えられており、
「畠田神社跡」と記された標柱と案内板が設置されている。
南藤原 畠田神社古社地 |
南藤原 畠田神社古社地 | 垣内に榊 |
祭神は埴安比売神(はにやすひめのかみ)式内社 明治41年4月北藤原の畠田神社に合祀。同8月に 中村の畠田神社に移転。平安中期(約1000年前)には南北 藤原と中村は一村であったが、村域の拡大で三ヶ所に 分離した。その時畠田三社も分離したのだと伝えている −案内板− |
当社の北東500mほどの北藤原の田の中に北藤原鎮座畠田神社の古社地がある。
田圃の脇に「畠田神社跡」と記された標柱が立っている。
標柱の横に案内板が設置されていたようだが、参拝時にはなかった。
あぜ道のような参道を進むと、方形の土台に「式内畠田神社宮蹟」と刻まれた石碑。
他にも石段や石碑、石、手水鉢の残骸などが残されている。
北藤原 畠田神社古社地 |
北藤原 畠田神社古社地参道 | 「式内畠田神社宮蹟」石碑 |