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蘭宇氣白神社
あららぎうきしろじんじゃ
三重県松阪市柚原町2124
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旧村社 |
三重県松阪市にある。
松阪駅の西22Kmほどの柚原町に鎮座。
166号線を西へ進み、伊勢道を越えて29号線へ。
29号線を9Kmほど西へ進んで、柚原町で南下する道へ入って1.4Kmほどの場所に境内がある。
川を背にして、東向きに鳥居が立っており、
鳥居の左脇に「蘭宇氣白神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり神橋を渡ると、参道は左手(南)に折れ、川沿いの道には木製の鳥居が並んでいる。
その鳥居をくぐると、突き当たりに手水舎。
そこで、川を背にして、参道を右手(西)へ進むと参道階段が上に延びており、
階段上に社殿。階段の左手には数本の巨木。
夫婦杉と呼ばれる、根元で繋がった2本の杉の巨木が二組あり、歴史の深さを実感する。
その夫婦杉の脇にあった平成八年の石碑に「御遷宮記念」とあるが、
社殿の建て替えでも行われたのだろうか。
参拝は3月の雨の日。
式年遷宮を終えた伊勢神宮に参拝し、三重県滞在の最終日。
本来は松阪市内の神社にお参りして長野県へ戻る予定だったけど、あいにくの雨。
雨の市街地での運転は面倒くさいので、松阪市のはずれにでも行こうと、
山間部の地図を眺めていて「蘭宇氣白神社」という社名を発見。
感覚的に「白い蘭の花が群生している場所」などを期待して来て見れば、
そこは、川と巨木の清涼な神域だった。
当社の蘭は、花の蘭(ラン)ではなくアララギと読み、イチイの別名らしい。
「化物語」が頭をよぎるが、夜、独りで参拝するのは覚悟がいるかも。
創祀年代は不詳。
明治末期の一地区一社の合祀令により、宇気郷地区の氏神として、
当地にあった蘭神社に、宇気比神社(与原・後山町)、白山神社(飯福田町)の旧村社を合祀し、
各社の社名を取り組み合わせて「蘭宇氣白神社」の社名とした。
蘭神社のアララギに関して、『三重県神社誌』には、
当地には、このアララギに対する信仰があり、境内に六樹存在するとあるが、
参拝時には知らなかったので未確認。
また、明治二十二年の町村合併で「宇気郷」という新村名が作られたが、
この地域周辺に多く宇気比神社が分布していたことによる。
「宇気比」とは記紀にある誓約(うけひ)のことであり、
須佐之男命と天照大御神によって誕生した五男三女の八柱の神々を祀る神社のこと。
祭神中の天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、
多紀理毘売命、市寸嶋比売命、多岐都比売命は、合祀された宇気比神社の祭神だろう。
八柱の神々から武塔神の八人の王子である八王子を連想され、伊勢では蘇民蒋来信仰が盛んなのだ。
『備後風土記逸文』の蘇民将来神話によると、
北海にいた武塔神が、南海の神の娘のもとへ通う時、
日暮れてしまい、備後国の地で宿を求めた。
備後国には将来兄弟が居り、弟の巨旦将来は豊かであったが宿を与えず、
兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。
武塔神は、南海から八柱の御子を率いての帰路、当地で報復を行うことになるが、
蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし免れたという。
武塔神は、その時「吾は速須佐雄の神なり」と名乗ったという。
また、武塔神は牛頭天王とも称す厄神で、祇園大明神とも呼ばれている。
蘭神社の主祭神は、その建速須佐之男命だが、アララギのアラが荒ぶる神である須佐之男命に通じるのかもしれない。
また、神に仕える斎宮では仏教的なものを禁忌し、仏教的な言葉を忌み詞として別の言葉で置き換えるが、
延喜式の斎宮式には、塔を「阿良良伎」と称するとある。
この塔から、須佐之男命の別名とされる、蘇民蒋来信仰の武塔神に通じるのかもしれない。
など、いろいろと興味深い神社だ。
当社の神紋に関して、『三重県神社誌』には「左三つ巴」とある。
だが、拝殿や本殿の屋根には「左二つ巴」の紋が付けられていた。
社頭 |
社号標と川 | 神橋を渡る |
境内、左手の鳥居が参道 |
並んだ鳥居 | 突き当たりに手水舎 |
参道階段。左手に二組の夫婦杉 |
夫婦杉 | 川 |
階段上の社殿 |
拝殿内 | 本殿 |