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知立神社
ちりゅうじんじゃ
愛知県知立市西町神田12
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式内社 参河國碧海郡 知立神社 |
愛知県知立市にある。
名鉄三河線知立駅の北1Kmほど、
155線が高架になっている側道に境内入口がある。
境内は南向き。入口の鳥居をくぐると駐車場になっており、
池に架かる橋の奥に、尾張造の社殿がある。
社殿の左に、御柱のような一本の柱が立っていた。
単に枝葉が落ちた立ち木なのかもしれないが、
面白そうなので、とりあえず撫でておいた。
駐車場の右手(東側)には室町時代に再建された多宝塔がある。
明治の神仏分離の頃は、知立文庫と改め、
取り壊しを逃れたもので、国の重文。
参拝は年末の午後。
境内の社殿や境内社では、白い作務衣を着た、
若い巫女達が大掃除の真っ最中だった。
境内社の社殿の中の埃が舞い上がっていた。
掃除中は、神様は何処にいるのだろうか。
参河国二宮であり、東海道三大社の一つ。
残りの二社はどこだろう。
江戸時代以降は、池鯉鮒大明神と呼ばれることの多いお宮。
神社の南を東海道が通り、
近くには、東海道三十九番目の池鯉鮒宿があった。
「知立」の語源は、「茅立」。
茅の育つ湿地帯を意味するという。
社伝によると、
景行天皇の御代、日本武尊東征のおり、
当地において、皇祖の神々に平定の祈願を行い、
無事、その務めを果したことにより、
当地に、建国の祖神を祀ったのが初め。
一説には、仲哀天皇の頃とも言われているが、
創建当初は、現在地の東1Kmの山町の北に鎮座していた。
戦国時代に焼失したため、上重原へ遷座したが、
再度焼失したため、天正元年(1573)、
現在地に移ったという。
嘉祥三年(850)慈覚大師(円仁)が当地に来た時に、
蝮に咬まれたので、当社に参拝し祈願すると、
痛みも腫れもなくなったことから、
古来、蝮よけ・長虫よけの信仰があり、
当社の神札を携帯して山に入っても、蝮に咬まれないという。
神紋は青海波。
碧海郡の青海首命に因んだ紋だろうか。
社殿の右手には幾つかの境内社が並んでいる。
当社の摂末社は五社。
摂社・親母神社(うばがやじんじゃ:豊玉毘賣命)
末社・合祀殿
(天照大神 豊受毘賣神 素盞嗚尊 大物主神 倉稻魂命 市杵嶋姫尊
猿田彦大神 大山積神 菊理媛神 伊弉諾尊 伊弉册尊)
末社・小山天神社(少名彦命)
末社・秋葉社(火之夜藝速男之命)
他に摂社・土御前社(吉備武彦命)
鳥居と境内 | 境内を歩きまわる鶏 |
多宝塔 |
本殿屋根 | 社殿 |
社殿 |
池に鯉の噴水? | 摂社・親母神社 |
秋葉社 | 合祀殿 |
知立神社略記
知立神社は池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社であります。当神社は、第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国ご平定のさい、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給い、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出見尊、鵜鵜草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後世、文化の恩神聖徳太子を合わせ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をもお祀り申し上げてあります。 −『平成祭データ』− 知立神社多宝塔
国指定重要文化財(建造物)
明治四十年五月二十七日指定 社伝によれば、八五〇年(嘉祥三)天 台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を 建立した。後知立神社の別当寺となった。 現存する多宝塔は、一五〇九年(永正 六)重原城主山岡忠左衛門が再建した。 三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を 配し、左右には連子窓、他は嵌板張りで ある。屋根は柿葺で、塔高は約十mあり、 室町時代の建築である。 明治の神仏分離令の際には、祀られて いた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除 き、瓦葺にかえ、「知立文庫」と名も替 えて、取り壊しの難をのがれた。 −境内案内− |