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香良洲神社
からすじんじゃ
三重県津市香良洲町3678
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三重県津市(旧一志郡香良洲町)にある。
紀勢本線の高茶屋駅から南東へ5ほどの香良洲町に鎮座。
23号線を南下し雲出大橋の北側で東へ進み香良洲橋を渡って道沿いに進むと当社の前。
香良洲町は雲出川の河口部にあり、雲出川と雲出古川によって形成された三角形の浜洲。
その浜洲の南側に当社の境内がある。
境内入口は南向き。鳥居の左手に「香良洲神社」と刻まれた社号標が立っている。
参拝は2014年の3月。式年遷宮を終えた伊勢の神宮への参拝の帰途。
当社でも20年毎の式年遷宮が2014年4月21日に予定されており、
境内や社殿の造営作業もほぼ終了している状態。
境内入口の鳥居も真新しい木の色をしていた。
鳥居をくぐると、広場のような場所があり、その北側の杜が社殿のある境内。
杜の入口にも真新しい鳥居が立っている。
境内に入り、砂利の参道を進むと道が左右に分かれており、
左手に進むと当社の御正殿。右に進むと遷宮中の仮本殿となっている小香良洲社。
御正殿の玉垣や瑞垣も新しく美しい。
玉垣の右手(東側)には、旧正殿のあった東御敷地があり、
旧社殿の廃材などが置かれていた。
創祀年代は不詳。
社伝によると欽明天皇の御代の創祀。
一志の浜洲に夜な夜な御神火が見え、里人が畏れ騒いでいたところ、
一志直青木という人が神の御心を仰ごうと、浜に出て御神誨を乞うたところ
「吾は生田の長狭に坐す稚日女神である。姉神の坐す伊勢のこの地に鎮まりたい」とのお告げがあり、
生田神社より勧請したという。
生田神社の稚日女尊に関しては、
神功皇后が新羅征伐の後、難波へ凱旋の折り、
海中が旋回して船が進まず、務古の水門に引き返して神意をうかがったところ、
稚日女尊が「吾、活田長峡國に居らまく欲す」とお告げがあり、
海上五十狭茅に祀らせた神。
「香良洲」の語源は、神功皇后の三韓征討=韓統(からすぶ)からという説や、
海が荒れるところから辛洲(からす)となったという説がある。
個人的には、参拝中、当社の上空を多くの烏が飛び交っていたのが気になるが。
稚日女尊は天照大御神の妹神であり、
天照大御神の御意を受けて衣を織らせ給うおり、素盞鳴尊の乱暴に傷ついて神去り給うたことから、
婦人の守護神、紡績の守護神、航海安全の神として崇敬された神。
当社、香良洲神社と境内社・小香良洲社は、式内社・稲葉神社二座の論社。
香良洲町は昔、矢野村と称しており、
当社祭神は、稲葉八上姫と素盞鳴尊の娘神・八野若比女とせる説がある。
稲葉は稲を干すところで、香良洲は稲を枯らす地であり、対岸の星合は干会であるという。
当社の宮踊(風采踊り)は三重県指定無形民俗文化財に、
式年遷宮の用材を台車に載せて運ぶ行事である香良洲神社のお木曳き行事は
津市指定無形民俗文化財に指定されている。
参拝時に確認できなかったが、『三重県神社誌』によると当社の神紋は「花菱」。
境内には、稚日女尊荒魂を祀る小香良洲社の他に、
忠魂社(戦没氏子の霊)、山神、大国社(大国主命・事代主命)、
浜の宮(海神・蛭子神)、稲荷社、神宮遥拝所などがある。
社頭 | 社号標と鳥居 |
境内 |
境内鳥居 | 参道 |
参道 | 左・御正殿、右・小香良洲社 |
左・新社殿、右・旧社殿 |
境内社殿 |
拝殿 | 旧拝殿 |
旧拝殿側から新御正殿。東御敷地に旧社殿廃材が置かれていた |
神宮遥拝所 | 小香良洲社 |
忠魂社 | 山神 |
稲荷社 | 御厩 |
浜の宮 | 大国社 |
香良洲神社由緒
稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ
第二十九代欽明天皇の御代(飛鳥時代(今より
およそ一、四二〇年前)生田の長峡(現在の
神戸市生田神社)より勧請申し上げおまつり
した神社です。祭神 稚日女尊 欽明天皇の御代にこの伊勢の海の浜洲で御神火 が毎晩みえるので里の人々が畏れ騒ぎも一通り でなくこれを知った青木という人が神の 御心をおがんだところ「吾は生田の稚日女神 である。姉神の在す神風伊勢のこの地に鎮ま りたい。」とのお告げがあり生田より御勧請 申し上げ社を造営し祭を行い長くこの地に 奉斎することになりました。 伊勢の神宮と同様二十年毎に式年遷座 を行っています。 −境内由緒書− 香良洲神社 由緒略記 稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ、第二十九代欽明天皇の御宇(今よりおよそ1,400年前)、生田の長峡(現在の神戸市生田神社)から勧請申し上げおまつりした神社です。 そもそもこの神様は神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)が三韓御征討凱旋のみぎり、難波の海(今の大阪湾)が荒れて船先がみだれた時、この神、その軍船を御導き給い無事御上陸になられたので、住吉、長田の神と共にこの神を生田におまつりにになられたのが今の生田神社であります。 降って欽明天皇の御代にいたって一志の須で(浜洲)夜な夜な御神火が見えるので、地人(里人)神意を畏れ、騒ぎも一通りでなく、これを知った一志直青木といえる人が一夜神のみこころを仰がんものと海辺に出て御神誨を乞い奉ったところ、吾は生田の長峡に坐す稚日女神である、姉神の在す、神風伊勢のこの地に鎮まりたいとの御告げがあり、青木恐懼直ちに生田より御勧請、祠を造営し祭祀を行い、長くこの地に奉斎することになりました。 この神、姉天照大御神の御意により機殿にまして、きぬを織らせ給うおり素神が天班駒の膚をはぎその機殿に投げ入れ給うたため傷つかれ神去り給うた。その時の御言葉により婦人の守護神としての信仰厚く、尚機殿にまして機織のことに従事せられたことにより、後世紡績界にもその信仰深く、また神功皇后の軍船を守護せられお導きになられたことをあがめ航海の神、海の守りの神としての信仰もまた非常に厚いのである。 −『平成祭データ』− |