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下田八幡神社
しもだはちまんじんじゃ
静岡県下田市1−18−38
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下田八幡神社例大祭公式ページを開く |
静岡県下田市にある。
伊豆急下田駅の南300mほどの場所に鎮座。
市民文化会館の北に境内がある。
境内入口は南東向き。
石橋の奥に鳥居が立っており、参道右手に「八幡神社」と刻まれた社号標。
当社の正式名は八幡神社のようだが、
拝殿扁額には「八幡宮」とあり、再建之碑には下田八幡神社とある。
当サイトでは他の八幡社と区別するため、下田八幡神社としておく。
鳥居をくぐり参道を進むと茅の輪が設置されていた。
参拝は正月三日の朝。年末の大祓の茅の輪だろう。
参道左手に力石や御神木、手水舎があり、左手には梵鐘。
さらに参道を進むと神門があり、神門の前には小さな俵が積み上げられていた。
正月飾りだろうか、神門にも紅白の幕が掛けられていた。
神門をくぐり参道階段を上ると社殿。
拝殿・本殿はは入母屋造だが、幣殿と繋がった権現造のようだ。
正月三日の天気の良い日の参拝。参拝中、宮司らしき方を見かけたが、
接客中で忙しそうだったので御朱印は遠慮した。
祭日や正月などは神職が居られる場合が多く、
御朱印をいただける絶好の機会なのだが、
同時に大変忙しい時でもあるし、氏子の方々を優先して欲しいので、
僕は御朱印を遠慮することが多い。
創祀年代は不詳。
正応年中(1288年頃、鎌倉後期)には既に鎮座していたという古社。
ただし、八幡として祀られたのは室町時代の頃のようで、
下田八幡神社例大祭公式ページの説明によると、
永正四年(1507)十一月下田港内で漁夫が漁をしていた時、
木像一体が網にかかり、漁夫がこれを海に捨てるということが六度続いた。
七度目の時に、数十の鯛と共にその木像が網の中にあったので、
これは福神だと考え家に持ち帰った。
その夜、漁夫の夢の中にこの尊像が現れて、
「吾は正八幡大神である」との神託があり、
牛頭天王(現在の副祭神)の傍らに小さな社を設けて祀ったという。
その後、朝比奈家二代が下田領主であった時、
「正八幡宮は下田の鎮守本社である。」と定め、
以来、下田の総鎮守として崇敬されている。
実は、参拝時、当社は式内社の論社だと思っていた。
『式内社調査報告』に、式内社・多祁伊志豆伎命神社の論社として、
本郷村高馬(現下田市本郷)の八幡社が記され、
『静岡県神社誌』には、式内社・竹麻神社の論社として、
本郷村高馬に在す、今八幡と称すとある。
本郷周辺の八幡社は当社だけなので、間違いないと思っていたが、
帰宅後に確認すると、下田駅の北、高馬に竹麻神社という小社が鎮座しており、
祭神は誉田別命。
どうやら、この竹麻神社が本郷の八幡社のようだ。
当初の参拝目的とは違ったが、
下田の総鎮守として崇敬される古社であり下田を代表する神社。
毎年八月には、大阪夏の陣で勝利した時、
徳川の軍勢が大阪城入城の際に打ち鳴らした陣太鼓を
後の下田奉行今村伝四郎正長公が伝えたといわれる下田太鼓祭りが行われている。
境内には仁王像を安置した祠と稲荷社らしき境内社が祀られている。
当社の神紋に関して。
賽銭箱には八幡の代表紋である三つ巴紋が付けられていたが
拝殿の幕や提灯には変わった菊花紋ご染められていた。
菊花の周りに三つの何かが描かれている紋で、
菊花を中心に3匹の蝶を配した伊豆蝶にも思えるが
より簡略化されたような神紋で、残念ながら名称は確認していない。
また、牛頭天王(素盞鳴尊)を配祀しており、
下田八幡神社例大祭公式ページの神輿の写真を見ると、
祇園社の木瓜紋 も付けられているようだ。
社頭 |
鳥居 | 力石 |
参道の茅の輪と神門 |
御神木びゃく槙 | 正月飾り? | 梵鐘 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
社殿 |
提灯の神紋 | 仁王像と稲荷社 |
下田八幡神社再建之碑
当下田八幡神社は正応年間(一二八八年頃)
既に鎮座せりと伝う縁起書によれば永正四年(一五〇七年)建設に なる社殿は享和二年(一八〇二年)失火により 焼失 文化四年(一八〇七年)再建さる 爾来百七十有余年に亘り下田の総鎮守 として崇敬をあつむ 昭和五十八年(一九八三年)十一月二十二日不慮の 事故により出火全焼せり氏子崇敬者一同 大いに恐懼奮起してその再建に当る 昭和六十一年(一九八六年)八月十日旧にまさる 権現造りの壮麗堅固なる社殿及び 手水舎新築完成す このことは神社役員はもとより広く氏子 崇敬者各位の奉賛による一大事業 でありここにその名を刻し徳を後世に 遺すものである 昭和六十一年八月吉日 下田八幡神社再建委員会 −境内石碑− |