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和志取神社
わしとりじんじゃ
愛知県岡崎市西本郷町字御立4
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式内社 参河國碧海郡 和志取神社 |
愛知県岡崎市にある。
西岡崎駅から北へ1.5Kmほどの西本郷に鎮座。
参道入口から参道を歩くと、明るい境内。
境内奥、拝殿の後方に入母屋造りの社殿があるが、
この中に本殿が納められているのだろうか。
その社殿の後方に、少し離れてもう一つ社殿がある。
はじめ、境内社かと思ったが、資料にない建物。
ひょっとすると、離れて立っている、こちらが本殿なのかもしれない。
資料には流造の本殿とあるけれど、
フェンスに囲まれて、良く分からない。
一見、お堂のような佇まいで神殿には見えない。
当地は、和名抄の碧海郡鷲取郷にあたるとされ、
当社も、鷲取天神と記されていた。
江戸時代には、瀬部明神、蝉神社。
天王社とも記され、末社の中に「ワシ取ノ社」があった。
当時は、現在末社になっている天王社が主で、
和志取社は、その末社の位置にあったようだ。
明治になって長谷部神社と改称したが、
式内・和志取神社であると確定し、社名を復称。
ただし、その後、安城市の和志取神社から異議がだされ、
式内社としての確定は取り消されたらしい。
祭神は、五十狹城入彦皇子。
当社の北西300mに西本郷古墳群があり、
五十狹城入彦皇子御墓とされる前方後円墳もある。
五十狹城入彦皇子は、景行天皇の6番目の皇子で、
三河長谷部直の祖。別名は、気入彦命。
当地にあって逆臣を討ち取ったので、鷲取という地名になった。
神紋は十六菊。
社殿の瓦に菊の紋が付いていた。
通常、菊紋が付いている場合、神紋なのかどうか確信できないが、
『全国神社名鑑』に、十六菊と記されていたので、
たぶん、間違いないと思う。
参道の左側に境内社が二社。
神宮社(天照大神)と社口社(布都御魂神)。
社殿の後方にも二社。
天王社・御鍬社(和志取大王命)と稲荷社(倉稻魂命)。
参道 | 鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿か? |
社殿後方の祠 | 大日堂? |
神宮社 | 社口社 | 天王社・御鍬社 | 稲荷社 |
和志取神社社記
御祭神 五十狭城入彦皇子岡崎市西本郷町字御立鎮座 五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で 勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕えこれより国内治 まり庶民大いに安堵したという 御墓は当町和志山にあり前方後円墳で前後三十五間面積七 百七十六坪周辺に六基の円墳即ち陪塚がある 明治二十九年 十一月二十八日御陵墓伝説地と指定 その後更に調査の結果昭和十 六年四月十八日御陵墓と御勅定同年五月二十六日勅使御参向 奉告祭が行われた 本神社は和名抄にいう鷲取郷の総社で延喜式国内百十五座の筆頭 たる旧官社で文政十三年神祇伯より正一位の神階を授け正一位 本郷大明神の扁額を下賜されたという古来上下の尊崇厚く累代 の領主より祭典費を献進があり祈年祭新嘗祭には幣帛を奉り 宝祚無窮稔穀豊饒を祈る例であった 明治七年五月二十五日教部省令により本神社を延喜式内三 河国二十六座之内和志取神社確定候事との指令を受けた 明治二十一年四月九日蓮華寺内で和志取神像が発見された 延喜年間の作と伝えられる木製の座像で本神社に鎮め祀って ある 大正五年十二月二十八日郷社に列せられた 昭和二十一年一月十日由緒上県社と認められたが戦後社格は級 社と変わり七級社として現在に至っている 拝殿祝詞殿神饌殿透塀等氏子及び特別崇敬者よりの浄財と延 二千六百余人の勤労奉仕により三ヶ年の歳月を費し昭和三十年 竣工した 御末社 神宮社 御鍬社 社口社 稲荷社 −境内案内板− |