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三嶋大社
みしまたいしゃ
静岡県三島市大宮町2−1−5
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式内社 伊豆國賀茂郡 伊豆三嶋神社 名神大 月次新嘗 |
静岡県三島市にある。
三島駅の南東1Km。道路に面して南向きに鎮座している。
入口の鳥居をくぐると、かなり大きな境内。
神池の中の参道を歩く。
参拝した日には、朝から境内で骨董市が行われ、
門の外のあちこちに、露店が店を広げていた。
神池は、清掃のためか、水が少なくなっていた。
門をくぐり、参道を歩くと神門。
境内中央に舞殿があり、その後方に社殿がある。
朝七時の参拝で、人の姿はまだ少なかったが、
午後、もう一度訪ねたときは、多くの参拝客で賑わっていた。
創祀年代は不詳。
三嶋、あるいは三島と書かれる各地の神社の根元社であり、
伊豆国一の宮である。
三嶋は、「御島」から変化したもので、
もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。
噴火や造島を神格化したものだと思われる。
三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、
伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、
伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、
その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。
源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。
この遷座に関して、以下のような伝説がある。
遷座に際して、当時、ここに鎮座していた若宮八幡の神に対し、
三嶋大神は「藁ひとつかみ分だけの土地を譲って欲しい」と頼み、承諾された。
ところが、三嶋大神は、その藁を解き、一本に長く繋ぎ合わせて、
広大な社地としてしまったのだ。
その後、若宮八幡は、境外摂社に祭られたが、唯一、三嶋大社に対して
背を向けているという。
祭神は、大山祇命と事代主命であるが、
大山祇命は、大三島に鎮座し伊予国一の宮である大山祇神社の祭神。
三島の社名の類似から、大三島から勧請されたという説が古くからあるらしい。
事代主命は、平田篤胤の説による。
火山活動によって、海上にもたらされる幸の神と解せば、
山神である大山祇命と、海の幸の神である事代主命をあわせ祀る現状が
結果的には、正解なのかもしれないな。
三嶋大社の神紋は、「角切三」。
ただし、拝殿の賽銭箱には桐紋が付けられていた。
三島の諸社には、桐紋を付けているものが多い。
境内入口 | 神池 |
神門 | 境内と神門 |
境内 |
拝殿 | 拝殿 |
本殿 |
境内社は以下の通り。
社殿の左手には、三嶋大神の御子神を祀る、
若宮神社(物忌奈乃命 誉田別命 五十鈴姫命)。
境内左には、三嶋大神の后神六柱を祀る、おなじく見目神社
(波布比賣命 久爾都比咩命 伊賀牟比咩命 佐伎多麻比咩命 伊波乃比咩命 優波夷命)。
その横に、大楠社(大楠神)、天神社(瓊瓊杵尊)、聖神社(聖神)、
第三社(第三王子)、幸神社(猿田彦神)が並ぶ。
境内右には、小楠社(小楠神)、第二社(第二王子)、
酒神社(豊受比賣神)、飯神社(保食神)、船寄社(鹽土老翁)。
参道の神池の中に、赤い厳島神社(市杵嶋姫命)。
境内の右側、鹿苑の側に、コンクリート造の伊豆魂神社(護國の英靈)。
賽銭箱の神紋 | 拝殿左の若宮社 |
境内左手の境内社 | 境内右手の境内社 |
厳島神社 | 境内の木 | 伊豆魂神社 |
鹿苑 |
境内に入ると、まず、正面にゴロンところがった「たたり石」がある。
「たたり」の本来の意味は、糸のもつれを解く道具。
東海道の往来にあって、交通整理のために置かれていた石。
ところが、これを取り除こうとすると災いが重なり、
いつしか「祟り石」という意味となったという。
また、源頼朝が平家追討の百日祈願のおり、
腰掛けたという「腰掛石」などもある。
この他にも、境内には多くの石があり、総称して「竜石」と呼ぶ。
祭神が竜に乗って海上に出現し、その竜が化身したものだそうだ。
さらに境内には、国の天然記念物である御神木・金木犀。
樹高15m、目通り周囲4m。
境内入口にある、たたり石 | 腰掛石 |
金木犀 |
由緒書
祭神大山祇神・事代主神 大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神である。 事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神である。 由緒 元の官幣大社で、その創建は極めて古く、此の地に鎮座し、神の御名により三島の地名ともなった。 延喜の制にはすでに最高の格である明神大に列し、月次・新嘗の官幣に預り、祭料稲二千束を寄せられた。 中世以降武士の崇敬が篤く、殊に源頼朝は治承四年八月十七日、御祭礼の夜深く神助を頼み挙兵し、旗挙成功するや、偏に大明神の加護によるものと神領を寄せ、社殿を造営し、神宝を奉り益々崇敬を寄せた。以来武門武将を始め庶民の尊崇をあつめ、三嶋大明神の御名は広く天下に知られるところとなった。 明治四年、最高の社格である官幣大社に列せられたが、戦後官幣の制度は廃された。 例祭 八月十六日を中心に十五、十六、十七日の三日間で大祭と呼んで賑わう。 尚この他、年間百十五度の祭典が行われる。 宝物 国宝梅蒔絵手箱(平政子奉納)をはじめ、重文宗忠太刀、重文秋義脇差、重美三嶋本日本書紀、その他頼朝・頼家・尊氏、顕家、宗瑞(早雲)等の古文書、刀剣等多数を蔵す。 社殿・境内 古来幾十度か社殿の造営が行われたが、現在の社殿は嘉永七年十一月四日の東海大地震により倒壊したものを時の神主矢田部式部盛治が十年の歳月と一万六千六百七十七両余の巨費を投じて、慶応二年完成させたものである。その後関東大震災、伊豆震災により、一部修理が行われたものである。 境内は、約一万五千坪(五万平米)である。 −『平成祭データ』− |