[HOME] > [神社記憶] > [東海地方] > |
|
事任八幡宮
ことのままはちまんぐう
静岡県掛川市八坂642
|
|||
式内社 遠江國佐野郡 己等乃麻知神社 |
静岡県掛川市にある。
掛川駅から一号線を東へ9Kmほど。
一号線の東側に鎮座している。
江戸時代は東海道沿いにあたり、街道筋の鎮座していたことになる。
境内社殿は南向きなので、一号線から入ると境内の西側入口。
境内社が2つ並んだ参道を歩くと、大きく枝を延ばした巨木の側に
鳥居があり、階段上に社殿がある。
社殿後方に本殿があり、本殿の右手(東側)には
太く直立した、御神木の大杉。立派。
創祀年代は不詳。
任事神社、真知乃神などとも呼ばれ、
街道筋にあるため、多くの紀行文に登場する神社。
『枕草子』には
「ことのままの明神、いとたのもし、さのみ聞きけん、
とやいはれ給はん、と思ふぞいとほしき」
『海道記』には
「思ふ事のままに叶へよ杉たてる神の誓のしるしをもみん」
『東関紀行』には
「木綿だすきかけてぞ頼む今思ふことのままなる神のしるしを」
「ことのまゝの明神」、つまり願い事が叶うお宮として有名だったのだ。
そのためか、『大日本国一宮記』には、遠江国一宮とされている。
延喜式には、己等乃麻知神社とあるが、
これは、祭神として己等乃麻知比売命を祀るため。
『式内社調査報告』では、
八幡神の玉依姫命が、己等乃麻知比売命と考えらているようだ。
『静岡県神社誌』では己等乃麻知比売命について、
「藤原氏本系帳に天児屋根命、父興登魂神娶玉主命之女許登能麻遅媛命所生也」とあり
天児屋根命の母神であるとする。
社記によると、大同二年(807)、坂上田村麻呂が勅により
本宮山から現在地に遷座させたもの。
『平成祭データ』によると、今でも本宮山に本宮があるようだ。
中世に入り、石清水八幡宮が勧請され、
以後、八幡神社と称していたが、
明治になって、現社名に改称した。
境内社は3つ。西側参道から、
金比羅神社(大物主神)、稲荷神社(宇迦御魂神)。
本殿の左手には、五社神社
(八意思兼神 天照大神 大國主神 火迦具土神 東照大權現)。
鳥居 | 境内鳥居 | 社殿 |
拝殿 | 拝殿 |
五社神社 | 本殿 |
境内 |
金比羅神社 | 御神木の大杉 | 稲荷神社 |
事任八幡宮ご由緒
由緒創立年代不詳。一説に成務天皇(84年〜190年)の御代の創立と伝え聞く。大同2年(807年)坂上田村麻呂東征の際、桓武天皇の勅を奉じ、旧社地 本宮山より現社地へ遷座すという。延喜式神名帳に(佐野郡)己等乃麻知(ことのまち)神社とあるはこの社なり。古代より街道筋に鎮座、遠江に坐す願い事のままに叶うありがたき言霊の社として朝廷をはじめ全国より崇敬されし事は平安期の「枕草子」に記載あるをみても明らかなり。 世が貴族社会より武家社会に移るや八幡信仰が一世を風靡し、康平5年(1062年)源頼義が岩清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。江戸期に入りては徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。明治以降は県社八幡神社と称せしが、第二次大戦後の社格廃止に伴い由緒ある名「事任(ことのまま)」を復活し、現在は事任八幡宮と称す。 主な文献 和歌多数のほか清少納言「枕草子」阿仏尼「十六夜日記」源光行「海道記」源親行か「東関紀行」十返舎一九「東海道中膝栗毛」「吾妻鏡」その他多数。 −『平成祭データ』− |