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川添神社
かわぞえじんじゃ
三重県多気郡大台町栃原1481
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式内社 伊勢國多氣郡 相鹿牟山神社二座 |
三重県の大台町にある。
紀勢本線栃原駅の東200mほどの栃原に鎮座。
42号線の西側にある南北に長い広大な森が当社の境内。
境内入口は南向き。道路に面して石鳥居が立っており、
鳥居の右手に「郷社川添神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると、森の入口に木の鳥居。
その鳥居をくぐると緩やかに下る参道。
参道を下ると御手洗川にかかる神橋がある。
神橋の右手に手水舎があり、正面の階段を上ると社殿ある砂利の境内。
手水石の前に鉄の踏み板があり、その板を踏むと龍口から水が流れ出てくる仕組み。
無人の神社では手水が汚れた神社が多いのだが、
これだと安心して手水を使うことが出来る。
階段を上ると清浄な神域。
社殿が二つ南面して並んでおり、階段正面が祖霊社、左手が当社の社殿。
祖霊社の右には神宮遥拝所がある。
社殿は舞殿のような拝殿と、拝殿の後方、垣に囲まれて神明造の本殿。
境内に「平成二十三年式年遷宮奉賛者」の名が記されていたので、
神宮に先立って平成二十三年に建て替えられたようだ。
本殿のある垣の中、本殿の右手に石碑が立っていたが何だろう。
参拝は三月の曇天の日の午後四時頃。
境外は明るかったが、森の中はやや暗く、参道の灯籠には灯りが灯っていた。
綺麗に整備された神社はとにかく清涼感に溢れており、
手水の仕組み一つとってみても氏子の方々に愛され護られている神社なのだとわかる。
創祀年代は不詳。
一説には大和朝廷成立期の創祀。
栃原の山賊を討伐平定し統治した建日別命と天手力雄命を祀り、
往古、栃原村、新田村の産土神として
建日別神社、あるいは建比良辺神社と称し、
栃原大宮、五身懸(ゴミカケ)の宮などと通称されていた。
当社地の小字名を牟山と称し、式内社・相鹿牟山神社二座の論社の一つ。
『神鳳鈔』多気郡の条に「栃原御薗内宮一石九月一二日」とあり、
鎌倉末期より明治初年まで毎年九月に柿や栗、十二月には米が
当地方より内宮に奉献する慣習があったという。
明治六年三月に郷社に列し、
明治四十一年以降、旧川添九地区の十五社および境内社六十六社を合祀し、
建日別神社から川添神社と改称した。
当社の祭神である建日別命は当社では伊勢国造となっているらしく、
九州熊襲の別名である建日別とは別神のようだ。
拝殿の屋根に花菱の飾りがつけられており、
『三重県神社誌』に当社の神紋は花菱紋とある。
参拝時に気付かなかったが、『三重県神社誌』には境内神社として、
八柱神社四社(国狭槌命)、八柱神社二社(天忍穂耳命)
楠神社(句句廼馳命)の名が記されている。
ただし『式内社調査報告』には境内社は祖霊社一社とあり、
明治の合祀以前は榊元神社、五社神社五祠、山神神社五祠があったとある。
社頭 |
鳥居 | 参道入口 |
参道 | 参道鳥居 |
神橋 | 御手洗川を渡る |
参道階段 | 手水舎 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
社殿 |
祖霊社 | 神宮遥拝所 |
川添神社
旧社格は郷社、祭神は建日別命(産土神)と天手
力雄命をお祀りしている。明治時代の川添地区と日進地区の各字内に社祀が あり、天照大神の他、大国主大神、少名彦名命、倉 稲魂神、埴安彦神等、三十余柱ほどが合祀して現在 に至っている。よく知られている五身懸祭は、産土 神など五柱の神々に五穀豊穣、諸業繁栄、氏子の安 泰を願う祈年祭であり、毎年二月十九日に近い日曜 日に行われている。 −社頭案内板− 川添神社 社頭掲示 当神社は天手力雄命建日別命を鎮祭し、栃原村、新田村両郷の産土神として社名を建日別神社と称し、古来栃原の大宮五身懸宮と伝習され、近郷に其名高く明治6年3月郷社に列せられ、明治39年12月25日三重県告示第三百八十号を以て神饌幣帛料供進社となる。次いで明治40年12月16日県の許可を得て、川添村内の村社7社無格社4社境内社59社を合祀の上、川添神社と改称して今日に至る。 −『平成祭データ』− |